飛脚って本当に人間だったの🏃江戸大坂を3日ってヤバいだろ [509981292]
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江戸時代から近代にかけての「旅」をテーマにした展示会が、臼杵市歴史資料館で開かれています。
この展示会は、江戸時代から近代にかけて人々が楽しんだ旅の様子を紹介するもので、市が所蔵する当時の地図や書籍など30点余りの資料が展示されています。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/oita/20240126/5070017715.html >>66
一応伝書鳩と同じ方式で、3個くらい同じ内容を書いて別々に送る。
2人までなら殺されてもオーケー。 >>267
中世に使われてた馬の大きさはどこの国でもたいして変わらん
ヨーロッパの騎士もモンゴルの弓騎兵も日本の武士も木曽馬と大差ない馬に乗ってた 箱根駅伝往路が107キロを5人で5時間半だから25人いれば届くね ポニーっていっても大型だからポニーで想像する大きさよりはでかい そもそも箱根駅伝が飛脚オマージュで始まったこと知らない香具師多くてビビるわ 元帰宅部チー牛引きこもり「リレー方式でしょw」←これwwwwwwwwwwwwww 年賀状の時期は地獄だったろうな
寒いしハガキ多いし 西からくる蛮族の様子を箱根まで確認して戻ってくるまで2日
これ防衛間に合わんでしょ >>219
指輪物語のストライダー
韋駄天と訳されたりストライド大股で歩く人
飛ぶ脚の飛脚にイメージ似とる。雇われと放浪者冒険者の違いはあるが。
エルフ寄りで普通の人類とは違うという設定だった 一方モンゴル帝国のジャムチはユーラシア大陸を一週間で結んだ >>267,273
木曽馬(きそうま)
高さは低いけど意外にガタイがいいしトルクもありそうでええやん
ジャップの平均身長は今より低かっただろうしこの短足馬のほうが適してたんやないか
こいつで手紙を運ばせたらだめやったんやろか
https://youtu.be/CVQemIzZIpE
https://youtu.be/gcpHxmIyi4A >>281
奇襲でいきなり城攻めは始めないんじゃないか
秀吉が北条攻めた時一夜城みたいの作るくらいだし >>270
琵琶湖から京都まで牛車で荷物運んだりしてた
>>288
遺伝的には同じかも知れないけど当時の栄養や厩舎の劣悪さを考えるともっと小さかったんじゃね ふむ 今の木曽馬はイマイチ信用できないな
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明治・大正期に行われた西洋種との交配や牡馬の去勢により一時絶滅寸前であったが、木曽馬保存会が中心となって活動が行なわれた結果飼育数は増加。しかし以前のような農耕といった使役を目的とした需要は失われ、高齢化により個人所有者数も減少傾向にある。令和元年時点で木曽において飼育されているのは138頭[1]となっている。
名称については血量が非常に高く純血に準じる純系を木曽種もしくは木曽馬と呼ぶ。別名木曽駒(きそこま)[2]。一方アラブ、アングロアラブ、アングロノルマン、トロッター、ハクニー、ペルシュロン[3]といった西洋種の種牡馬と木曽馬牝馬との交雑の結果生まれた馬たちの子孫は「系」をつけて木曽馬系もしくは木曽系とし木曽馬と区別される。木曽馬牧場以外で乗馬等に使われているのはこうした木曽馬系(木曽系)が多く、時には半血種もいるという[4]。さらには木曽馬と呼ばれているものの血統証明が無い馬、実際の血統が不明な馬も存在する >>291
戦国武将の馬で記録が残ってるので体高140cm強
これは同時代のヨーロッパやモンゴルと比較して特に小さくはない
現代人がイメージする大きさの馬が普及したのは割りと最近 >>294
それは当時最大最強クラスなんじゃないのかな
関西の牛車
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京都周辺での牛車利用は、慶長19年(1614)の大坂
冬の陣の際、物資の輸送に貢献したことにより、全国
営業許可の特権を得たことによっており、淀・納所・
横大路・上鳥羽・京都九条にいたる鳥羽街道、伏見・
竹田街道、大津・逢坂・山科・日岡・粟田口にいたる
山科街道において行われていました。このうち山科街
道の牛車は、敦賀・小浜から琵琶湖経由で大津に集荷された米輸送を主に扱い、路は損傷を防ぐため敷石舗道となっていました。 ZARDが流れない時代にそんなことできるわけ無いだろ 江戸時代に牛車はわりと盛んに使われたのは近江、駿河、広島、仙台等かな。おそらく他にももっとあるだろう。
特に仙台は米の輸送の長距離路でも牛車が使われた
そういう道は馬車にも使えるはずで、実際明治にはすぐに使われている。
江戸時代に馬車が使える道でも馬車が使われなかったのは技術がなかったから。
蹄鉄、去勢、馬と車をつなぐ繋駕器具等が未発達すぎた >>6
黒人奴隷を自由人にして側近に取り立てた殿様の例はある。
その殿様は織田信長。 >>300
大陸と交流はあったのに家畜を扱う技術が恐ろしく未熟だったのは不思議
地形・気候的に牧畜に不向きだったという要素はあってもそれにしても牛馬自体は
利用してたのに 中国や朝鮮やインドやアメリカヨーロッパには飛脚ってなかったんかな >>274
途中で子鹿になる奴とかいて案外ヤバかったかも そもそも当時の日本を今のようなひとつの国として捉えるほうがおかしい
藩の連合であって自由な移動は伊勢参りとかを特例を除いて基本的にできない、物流に関しても自由にできない、藩をまたぐ手紙なんて一般人には不要 >>303
世界中に駅伝制ってものがあってね
今だと駅伝って陸上競技のイメージがあるけど
元々は街道の一定の距離に町を作って情報や人、物を円滑に流通させる為のシステムの事を指す言葉で
そこを行き来する飛脚のような情報専門の人間や職業は当然世界中であったと考えられる 同じ名称を共有した他人なんだろ
それを一人だとして読み解くから24時間走りっぱなしの超人物語なってしまうとかじゃね? 色々と最適化された競技マラソンとは全然違うんだろうな
栄養補給も握り飯とか乾燥させた食べ物になるんだろうか
あと上の記事にあった、わらじが痛いってのはヤバそうだ まあ藩単位の移動で良くそれを越えて移動するのを抑制したのだから政治的にウマは移動に使えない(使えるのは特別な理由のある武士のみ)とかになるよね 道だって今みたいに整備されてないだろうし
駅伝方式だとしても相当速いだろ
凄すぎ >>310
中継所をたくさん設けてて一人が走るのは10qくらいだったそうだから、走りながら食べはしなかったんじゃない? キサマら、牛車を否定するとはジンギスカン作戦を否定する気かっ!!(・`ω´・ ) 米だけじゃそんなスタミナつかないだろうし、
野菜とか魚とかもかなり食ってたんだろうな 山や川はロープウェーみたいなのを利用したのでは?
全ルート走るとか頭悪すぎる >>130
うるおぼえだが、文書を特殊な紙(油を塗って防水)に
包んで肥溜めの底に沈めて運ぶ、というのが
あったはず。フェイクとして ひとりで走りきってると思ってるヤツらが殊の外多くて草
駅伝なんて紀元前1000年のむかしからある制度なのに 当時で考えると異常だよね
道路整備もそうだし履物もそうだし 幕府は馬を軍事転用されるのを恐れてわざと川に橋をかけないとか馬を使いにくくしたんでしょ おそらく実話だろうと思う
丁稚とかも休みほぼなし働いたり
昔の労働階級男はガチでもののように使われて
平均寿命30前半とかだったらしい
弱者男性だのいっても今が一番恵まれてると私は思うよ 由比興津の薩埵峠とか景色いいよな
でっかい健康ランドもある >>300
車使ってた?牛馬の背中に荷物を積んで引っ張って歩くんじゃなくて? >>222
一番下のやつ
なんでペダルも無しで足蹴りで乗ってるねん 江戸時代はオーパーツだらけ
明治政府が隠すために色々消してるから辻褄が合わなくなってるんだよな 整備された街道ではキックボード的なものを使ってたことが判明してるからな >>66
飛脚を襲うのは超重罪だったんじゃなかったか
特に御用のは 現代人がこれやったら江戸時代の人に勝てるのかな?(´・ω・`) ニューヨークタイムズ 世界の話題
エリウド・キプチョゲ そのマラソン哲学
更新日:2018.11.05 公開日:2018.11.05
近代以降、彼ほど突出したマラソン選手は出ていない。
いかに偉大な長距離ランナーでも筋肉を傷めたり胃の調子を壊したりして、勝利から遠のいていった。
キプチョゲは決してそうならなかった。
子どものころ、キプチョゲは一人でひたすら走った。
それが学校往復の移動手段だった。いったいどれほど走ったのか。
まさかそれがマラソン選手としての基礎になるなんて、当時は考えてもみなかった。
育ったのはケニア・ナンディ地区の小村カプシシイワ。
母は教師、父は彼が幼少のころに亡くなった。キプチョゲは4人の子の末っ子だった。
10代で学校を終えると、キプチョゲは近隣の酪農家から集めたミルクを市場で売り、家計を支えた。
https://globe.asahi.com/article/11922237
実際 生活の糧として子供の頃から走ってると
自然とそういう体型になってくるんだろう 世界(=西欧)標準の近代化をひたすら拒んだ劣化日本
今の日本の問題のかなりの部分(もしかしたら全部?)
は飛脚なんかを整備()した糞な時代のせいだろ >>337
箱根駅伝に出るような連中が国道一号線を昼夜を問わずリレーして東京から大阪に向かったとすると
タイムからの計算上は飛脚より1日早い2日で大阪に着く事になる サムスピだとカリフォルニアまで走ってきて爆弾投げてくる >>22
昔の馬って日本固有の背の低いどっしりしたタイプで速さはない ほとんどの人間は地元を出ることなく死んでいったんだろうな 伊勢詣りとか大山詣りとか庶民でも結構旅行してたみたいだよ 長距離を走る飛脚もそうなんだけど
人間を二人で担いで街中を歩く駕籠屋なんかは
どんな身体してんだよと思う
https://i.imgur.com/PAp2Bss.jpg >>298
安い飛脚は走らないで荷物馬に乗せて歩いてたのか
全員が半裸で走ってたわけじゃねえんだな >>8
武士以外はいわゆる乗馬はしてはいけないんだよ。馬方に引かせて荷物扱いで乗るような形でしかムリでそんなんではスピードは出せない >>255
その割にはというかその反動というべきか
心中や仇討ちが賞賛されていたのは江戸文化の面白いところだよな
山上への同情にもこの流れがあると思う 明治初期に熊本のど田舎で生まれ育った金栗四三がマラソンのベストタイム2時間19分台だから
江戸時代の飛脚も現代と比べて少し劣るくらいには早く走れそう >>111
人間が他の動物より圧倒的に優れてるのって持久走だってなんかの漫画で読んだ 黄門様だって歩いて諸国漫遊 縄文のむかしから、この国の人間は歩きで全国
津々浦々に至るまで陸路を拓き続けていた 万葉集にだって、武蔵の国(東歌)から
信濃(長野県)を経由して大宰府(北九州)の防人に徴収されるだんなを労わる歌が
残ったりしてる 徒歩で旅をすることなんてへーちゃらな国民だったんだ
途中途中に険しい陸路があったとしても、途切れることなく古代都市から古代
都市への街道はキチンと整備されてた(整地の意味では無く)
江戸期だって江戸からお伊勢参りの伊勢講とかも有名
歩ける道がちゃんとあるなら急ぎ足だろうと小走りだろうと、行けるなら行く 能登で明らかなように道路や橋を整備しても当時の技術では地震台風高潮津波などで数年おきに破壊されてただろうから立派な道を整備する意味がなかったのかもね 中国大返しとかの事実だけみても現代人とは基礎体力がまったく違うのがわかる 今は汗だらけになって1日風呂入れないと我慢できないとかいうから戦争なんてできっこないな 一日にどのくらいの取扱量があったのかとか知りたいな
江戸大阪間で手紙何通とか荷物どのくらいとか
ある程度1日何便とか作ってまとめて運んでたんでしょ? マジレスすると
ジャップ=嘘つきの一言で説明できる >>101
これだよ
一人で走るわけじゃない
情報の重要性は古来から誰でもわかってるから、
早く情報を伝えるための体制づくりはどの権力者でも取り組む 旗振り通信
熟練した者によってスムーズに旗振りが行われた場合、1回の旗振りを約1分で行うことができたと考えられ、旗振り場の間隔を3里(12km)とした場合、通信速度は時速720kmということになる。大阪から和歌山まで十三峠経由で3分、天保山経由で6分、京都まで4分、大津まで5分、神戸まで3分ないし5分または7分、桑名まで10分、三木まで10分、岡山まで15分、広島まで27分で通信できたといわれている[15]。江戸までは箱根を超える際に飛脚を用いて8時間[† 4]であった[17]。 リレー方式で馬が走れる場所は馬で、人が速い所は人で運んでたって学校の授業にも出て来たろ 江戸時代の伝馬は原則公用しか使えなかったようだ
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「伝馬」とは、幕府の公用をこなすために宿駅で馬を乗り継ぐ、その馬のことをいいます。
そして、公用の書状や荷物を、出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度を「伝馬制」といいます。 馬の話ししてる人結構いるけどサラブレッドやないんやで
種の名前はよくわからんが競馬で走ってるようなスラッとしてでかい馬は
日本に入ってきたの明治以降やろ
在来種なんてデブったポニーみたいなやつばっかやで 江戸の重大事件とかが地方の諸大名より先に民間に届いてしまうのも嫌だったんだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています