仏教の『歎異抄』に全く共感できない。悪人が救われてしまうならこの社会はちっとも良くならねーだろ [653462351]
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第三条 善人なをもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
悪人成仏のためなれば、他力を頼みたてまつる悪人、最も往生の正因なり。
【現代語訳】
善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。
自分の中に何らの善も見出さない、ひたすら他力をお頼みする我らのごとき悪人の方が、
かえってこの救済にあずかるのに最も相応しい人間なのであります。
↑バカか!?コイツは
https://news.yahoo.co.jp/articles/ea1ae963bae5ab18daaed4e75e8c519bd992c870 安倍晋三は死んで院殿大居士だぞ?
悪人のほうが極楽に近いに決まってんだろ?
悪人が救われねえなら一生悪に染まるだけだからな
救いは要る
お釈迦様が祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のことです。
お釈迦様は毎朝、托鉢(たくはつ)に出かけ、その後、自分の部屋の中や森の木の下で、静かに座って瞑想されました。
時々、お弟子さんや、お参りに来た人々の為にお説法をされました。
また、散歩をしたり、お弟子さん方の様子を見てまわられることもありました。
ある日のことです。
お釈迦様は、祇園精舎の中に とても汚い部屋があることに気がつかれました。
変な臭いさえしてきます。
不思議に思って部屋の中をご覧になると、お弟子さんが一人、「うんうん」うなりながら
寝ています。大変苦しそうです。
お釈迦様は中にお入りになって
「いったい、どうしたのだ?」
と、おたずねになりました。
お弟子さんは答えました。
「はい、お腹が痛いのです。」
「誰も看病してくれないのか」
「はい。でもそれには訳があります。私はわがままで、仲良しの人が一人もいません。
他のお弟子様方が困っていても、助けてあげたことがありません。だから私が病気に
なっても、誰も見舞いに来てくれないのです。」
お釈迦様は、いつもお側にお仕えしているお弟子アーナンダに手伝わせて、
そのお弟子さんの衣を洗い、部屋の掃除をし、体をさすっておやりになりました。
お弟子さんはどんなに嬉しかったことでしょう
やがてお弟子さんは元気になり、それからは他のお弟子さん方と仲良くして、
立派なお弟子さんになられました。
終
親鸞上人が自分を痛烈に反省されて阿弥陀様に
お救いをされていった方だと思いますが どういう形でそれが救われ
るのか 文例を紹介しながら又お話を聞かせてください
蛇蠍奸詐のこころにて (奸詐:うそや計略で人を陥れようとすること)
自力修繕はかなうまじ
如来の廻向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん (無慙無愧:悪事を働いても、それを恥じることなく平気でいること)
小慈小悲 もなき身にて
有情利益はおもふまじ (有情:愛憎のこころのあること)
如来の願船いまさずば
苦海をいかでかわたるべき
ー愚禿悲歎述懐(ぐとくひたんじっかい)
自分の心は蛇や蠍のようなものだ 自分で善を行うということはできない どん底においては如来様の
お恵みに頼らなければ悪性に包まれたまま死んでいってしまう
慈悲心も何もない私のような人間は救われようと思ってもダメで阿弥陀様にお願いするより仕方がない
仏さまの誓願の船に乗せていただいたらそのお恵みによって我々は救っていただけるんだ
(どん底の中からの喜び)
「そんなに努力しないで変われる人よりも変わろうとめちゃくちゃ努力しようとする人の方が報われるんじゃないか」的な意味だと高校でやったときは思ってたけどな
この話から変わってインドの「猫の道猿の道」という救済の仕方の話になる
猿の道:猿の子が外敵から襲われそうになると母親にしがみつき母猿はそこから逃げていく
そういう具合に救われる
猫の道:猫の子に外敵が近づくと母猫は子猫の首を噛んで安全なところに運ぶ
子猿の場合は母親を頼る(信仰心)があり飛びつくという(行)もある で救われる
けれども子猫の場合は外敵に気が付かなくても神様のお慈悲だけで救われる この場合は
行はなく信だけだというのです
(50分)
話はここから「悪人正機」へ
阿弥陀様のお慈悲は大きなもので絶対である だから善人で阿弥陀様に多様るものは全員
救ってもらえる 善人が救われる具合だから悪人はもっと救っていただける
世間の常識と逆になる
自分の力で何とか出来る人はいいけれどもそれができないどうにもしょうがない自分
善人は善(行)をすることができるけど(信と行)
悪人は善(行)をすることができないわけです(信だけ)
絶対他力
>>16 これな
善であらん、極楽にいかん、ってのは欲なんだよ
エゴ
もうどうでもいい、私は私じゃない
全体の好きにしたら良いって個を捨て去ったときにワンネスに気づいて悟りを開いた
アカシックレコードにチャネリングしだしたらなにもかもが手に取るように理解できて「すべてを思い出した、ここにいる意味はない」とそのまま死のうとした
が、その悟りをこの世に残せという使命を受けて弟子たちに口頭で伝えた
これはキリスト教でいう予定説に近い
良いことをしたから救われるとか
努力をしたから報われるるとか
そういうやましい下心ある取引は
神様仏様はしないってだけで
少なくともここで言う悪人善人の意味が字面とは違ったと思う
どっちも適当な人が言った適当な言葉に囚われすぎだろ
悪人正機というのは精神科に通ってる嫌儲民にとっても
たいへんありがたいお話だ
これとは対極的に、自分の穢れを離れる「善」の苦行で真理に到達しようとするのが六師外道のジャイナ教だろな
ダイバダッタも「善」への強い志向で厳しい戒律的な方向で釈迦を批判したってことになってる
悪人正機を誤解して悪行してもよいって考え方は造悪無碍と呼ばれていて、親鸞存命の頃から問題だったらしい
そもそも善人などいないって話なんだろ
自分を善人だと思いこんで、だから救われるはずだと間違った考え方をしている人でも救われる
悪人だと自覚して一心に阿弥陀仏に縋る人はなおさら救われる
>>32 そうじゃない
善を行えない人間 やくざとか
そういう存在を認めるかどうかってこと
司馬遼太郎は無人島に一つ本を持ってくならこれと言ってるぞ
親鸞がこう言っている
「修行をして仏さまに近づけば近づくほど(後光の)光が増して
影(煩悩)も濃くなっていく」
真宗をどうこう言うつもりはないが俺は親鸞以下より法然すげえと思う
今ちょうどツイッタ見れば理解ると思うけど
自分は善人だと思ってる連中こそよっぽど救いがたいんよ
自分は悪人だと自覚してるクズのほうがまだ遥かにマシなんね
>>43 今の世の中は「善」を振りかざして攻撃するからね
一般的な道徳の話をしてるんじゃなくて本願他力の説明なんだよ
自分が救われたいから良いことをする
これは偽善で悪だ
善行と救いを等価交換とかて仏様と取引しようとする悪人だよ
もしそれで救われなかったら契約違反として仏様を訴えるのか?
毎日部屋の掃除してない奴が(掃除せんとあかんね……)と思ってただけで部屋が綺麗になるわけないやろ😌
二極論でポジティブネガティブ
光と闇、善と悪みたいにいうけどこれ両方ないと両方なくなるようなものだよ
光なければ影なく光強ければ影濃くみたいな話
なので潔癖は悪としてる宗教すらある
どちらも受け入れて初めてワンネスに至る
仮に現世では救いようのないクズでも
阿弥陀さんのお慈悲は無限なので死んだら極楽浄土に迎えてくれるに決まってるよ
って話
浄土そんなに信じてないけどそういう残念な奴を救ってくれるのが阿彌陀仏なんだっていうのちょっと教祖の才能あるよな
親鸞が人気があるのはこういう話もあるよ
親鸞聖人の書き記した書物「歎異抄」にですね
お弟子が親鸞聖人にこういう質問をしました
「私共は仏さまに救ってもらうということはわかりますがそれなのにどうも
病気になったりすると死ぬんじゃないかと思って寂しくなる どうも死にた
くはないと思ってしまう 阿弥陀様の極楽浄土に連れて行ってもらえるん
だからありがたいことだとわかっているのに」
親鸞聖人
「自分も同じ疑いを持っている どうしたことだろう」
という一節があります
人間が迷っているからこそ救っていただけるということのありがたさがかえっ
てますますわかるのではないかとか そういうような主旨の問答がございます
シャカの教えをガン無視してるパチモンのくせに仏教名乗るなよジャップイム教
実際悪人でも救われるぞーと布教したら
日本一の宗教になった
そういう、自己から離れた対象として涅槃とか真理とか救いとかを求めてやるものを「二乗」って言って大乗では批判される
対象としてあるべきなるべき目標を求めずに
「ただ坐る」ってのが曹洞宗の只管打坐だろね
お釈迦様は悪人は成仏できないで六道を輪廻する
阿弥陀様は悪人でも極楽浄土に行ける
歎異抄 第十三条 「薬あればとて、毒を好むべからず」
>>53 しかしお釈迦様の法華経で成仏したら
その極楽浄土は阿弥陀様のところなんだよ
法華経に書いてある
大学時代に親鸞会に冷やかしで1カ月くらい入ったことあるけどアニメ面白かったわ
お前らも宗教の勧誘に出くわしたら小一時間くらい付き合ってやれ
いろいろ学べて面白いぞ
>>39 救いは一方的に施しとして与えられるもんだからな
善人でも悪人でも仏様が一方的に与える
良いことした代わりにその対価として救いを仏に後払いさせてる訳じゃないから
悪人にだって無条件で与えられる
それだから有り難みがある訳で
阿弥陀様の場合は悪人を成仏して「霊」になったところで更生させる
お釈迦様は更生するまで何度も人間に輪廻させる
この違い
なんか法事というのが半強制的に一般的な日本人の人生の中に組み込まれてるからしょうがなく許されてる感あるが
浄土宗や浄土真宗のような教え到底受け入れられん
カルトと変わらんよ何が阿弥陀如来じゃ極楽浄土じゃ
そんでそんな経をとく生臭坊主に金納めんといかんのが苦痛
親父が死んだら墓じまいして坊主とは縁切りたい
阿弥陀さんは阿弥陀さんを頼って来る人を成仏させてくれるんですよ
阿弥陀を頼らず自力で成仏しようとする人を阿弥陀さんは救ってくれませんよ
という仏教カルトだから
そりゃ日蓮もブチ切れるわ
>>62 >>61 阿弥陀様のところに行っても相当つらいよ
人間は死んだらとりあえず救われるが「霊」は死なないから
「花はただ咲くただひたすらに、ただになれない人間のわたし」なんて詩があるけど
相田みつをも曹洞宗の禅者だったらしいな
念仏さえ唱えていれば死に際に来迎印結んだパンチのおっさんが極楽浄土に連れてってくれるとかオカルトの極みだろ
日蓮さん、ホリ○モン的な逆張りキャラだと思ってたわ笑
>>65 自己責任論までいくんだよなこれ
ヨーロッパの宗教改革でも
いや全部が全部他力本願他責なのはおかしいみたいになって
資本主義とプロテスタンティズムの自力救済みたいになる
このスレにもいるけど真理を悟ったように説教をかましてくる坊主くずれが本当に煩わしい
違う世界の捉え方を認めようとせず、自分が学んだ世界で全てを理解できると傲慢にも思いこんでいる
生きた議論から新たな発見も自説の弱点も認めず、ひたすら既存の世界の正しさを説く
まともな坊主は議論になるんだけどね
人間の本性は思い通りにならない 場合によったら悪に陥る恐れがある
その人間の深い反省を示したのは浄土教ではないでしょうか
ここで親鸞上人の和讃法話が読まれる
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蠍のごとくなり
修繕も雑毒なるゆへに
虚仮の行とぞなづけたる
ー愚禿悲歎述懐(ぐとくひたんじっかい)
愚禿悲歎述懐(ぐとくひたんじっかい)と親鸞上人自らが言ったのは
坊さんのかっこをして頭を剃っているけれども卑俗である 純粋な意味
の出家者というわけでもない しかし在家者という立場も超えている
反省してみると自分の至らぬことを感ずるというので 親鸞聖人は
自らを反省して「愚禿」という言葉を使われたそうです
(他人が言ったわけではない)
卑俗:低俗
虚仮不実:(こけふじつ)嘘偽り
>>68 それ読んでから書いたんだよ
救う救われるの定義はここまで書かれてないから疑問に思ってる
土人
どんな生き物でも殺したら地獄だとか
それにおびえてナミアブダブツとか
人間の価値が低すぎる
かなしー
所詮アジアなのか
>>69 どっちかというと全部自分の努力や頑張次第で神様仏様が認めたから成功失敗したんだっていうサクセスストーリーの方がカルトと親和性ある
これはごもっとだ
いま就労移行支援通ってるけど、ダメなやつほど支援員に素直なんだよ
俺みたいに中途半端なのは地方自治体の金ふんだくってテキトーなことやってるタカり屋どもがって思ってしまって前向けない
>>76 信心&修行で救われる 法華経
信心だけで救われる 阿弥陀様
ちょうど五木寛之の親鸞読んだけど
鬱になるわ
夢も希望もなくて
>>81 そこで善とは何かという話になります
四諦・八正道になるわけです
>>1弟子の伝聞である歎異抄よりも親鸞本人が書いた教行信証か短い正信偈、もしくは手紙などを読んだほうが良い
親鸞は坊主なのに妻子がいて獣なんかも食ってた
わざとそういうことをしたのではないだろうか
何かに反発するように
でもそういう人間らしいところが人気の秘密だろう
>>84 そもそもこの世がどうしようもなく
絶望的だから来世を信じる訳だからな
>>7 それ、悪人正機だな、全ての人間は悪人である的解釈あるからね、確かにオレも過食症あるから悪人だと自覚ある、食べ物無駄にしてるし
ただ、悪でも程度差があるのに、親鸞はあまりその事には触れてないと思う
>>88 そうじゃない
それを選んだのは自分だよ
絶望の世界に自ら生まれてきた
安倍晋三でさえ清浄な世界に行くことになってるんだから桐島聡が清浄な世界に行くのは明らかだろ
釈迦は自分のことしか考えてないよ
自分の中にすべてがあるという教え
自他をわけるのは無意味、同じだから
わかりやすくいうと情けは人の為ならず
これに対してアホとかバカとか言ってる人でも南無阿弥陀仏の心を起こせば救われるんだからいい話だよ
岩波書店のワープポラ・ラーフラ著ブッダが説いたことおすすめ
死んだらみんな天国に行けるとかそんなのは要らないんだよ
現世で救われないならもはや生きてる意味がないからな
みんな現世で救われる教えや言葉がほしいんだ
現世では誰によってどう救われるのか
具体的な例を以て知りたい
個人的に推測する1つの回答は持ってる
しかしながら現実は、突き詰めれば結局、声なき愛すべき姿をしてない者は救われない、という結論が出てしまう
救出されるとしたらそれは自己の脳内妄想のみ
薬物、アルコール、なんらかの狂信に依存して
どこにも神などいない
>>89 そんなことないよ
祇園精舎の話では金持ちも苦労があることを説いている
浄土宗・浄土真宗における阿弥陀如来は「仏」ってか、アブラハムの宗教における「全知全能の唯一神」に近い概念だからな
で、もしこの世の人間が「生前の善行によって極楽浄土に行けるもの」と「悪行によって地獄や畜生道に落ちることが決まっているもの」に別れているのなら
それは全知全能の阿弥陀さまが予め振り分けてその運命を決めていることになる(なぜなら全知全能だから)
で、阿弥陀さまってそんな底意地の悪くて器の小さい存在なの?っていう疑問が当然のごとく発生し
浄土真宗としては「そんなはずはない、阿弥陀様は慈悲の心も無限大なのでどんなドクズや底辺でも全員極楽浄土に迎えてくれるに決まってる」っていうスタンス
っていうのがこの「悪人正機」のお話
なんかキリスト教圏のカルヴィニズムを巡る議論でも似たような論争があった気がするが
だいたいそんな感じ
>>96 まずさ 自分が好んでこの世に生まれてきたという
前提はないのかね
自分の中の悪性に無自覚な善人よりも自覚のある悪人の方が仏に近いって話
もう一つは当時の貴族社会と仏教界に対する批判だよ
大規模な法会を開催したり寺院にやたらと寄進したりすることを善行として極楽に行こうとする貴族と、そこに付け入る坊主を真っ向から否定してる
正直死去即成仏って真宗の教義には救われた
母ちゃんが死んだ当時父ちゃんも死にかけで法事が遅れたんだけど
法事も介護も看病も一切手伝わない兄と弟が早よお弔いやれとせっついてきて
成仏させる気ないとか霊が現世彷徨ってるとか怒鳴り散らしてたのを
真宗に法事を依頼して黙らせた
父ちゃんも何とか健康取り戻したし
>>100 ルターみたいなもんか、世界中同じなのね
親ガチャって言うでしょ
でもそうじゃない
自分が好きで苦労の人生を選んだんだよ
人の行動は全て良いものを選択しようとすることの集まりであり連鎖であり究極的に善いものを目指すために人は選択を繰り返す的なニコマコス倫理学的な考え方からすると、浄土とか真宗とかは選択するか?選択せずに受け入れるか?のうちの後者の道を選択したと思うんよね🤔
選択した結果、選択せずに受け入れるという逆説的なかんじやけども
仏教スレはだいたいオカルトと無理解による罵倒が渦巻くからあんまり見ない方がいいね
>>18 なんか違うとオム
仏教、特に浄土系はあの世と現世の区別を否定してる、つまり、現世利益追求してる輩は親鸞は悪人と考えてただけ
本当の他人の正当な権利奪う悪人は救われるとは思えない
誰も救われないよ
だから誰もこの世に来るべきじゃないってこと
>>91 確かに現世や現状を自分の自由意思で決定したかどうかは
責任の根拠として大きいけど
それは究極的に選べない事柄だから神様や仏様が出てくるんじゃないのか?
あなた方は生まれる前には「霊」だったんだよ
仲間に「俺は楽な人生より苦労して乗り越える道を選ぶんだ」と言って
英雄気取りで不幸な親の元に生まれてきた
しかしそれをまるっきり忘れてるから親が悪いというわけ
ユダヤ教ですら人間は動物の支配者だし
神は宇宙を創造できるし
神以外にはなにも恐れない強さがある
>>110 仮に霊があったとしても、霊は他人であり、霊が「こうしなさい」と言ったのを受け入れることはただ他人の言うことを受け入れるだけであってなんの問題解決にもならんのよね😌
でも何も選択せずになんも考えずに全てを受け入れることってのは楽なことでありそれはそれで心は救われることになるかもしれんね
親鸞は弟子にあてた手紙で薬があるからといって毒を好むべきじゃないよと言っているし
「霊」は自分がどこの親の元にお生まれるか選べるの
しかもそこに生まれたら将来どうなるかもわかって生まれてくる
そうやって親を救うために苦労するわけ
しかし生まれてきたとたんにそれを忘れて
しまいには「親ガチャ」といいだす
>>96 現実といっても大部分は虚構だからな
好きな物語を踊るしかない
>>91 この辺からオカシクなってきたなw
( ̄▽ ̄)
>>43 バラモン左翼の事、人権振り翳し我田引水してる碌でも無い奴等、サヨクマスコミやサヨクの弁護士、サヨク裁判所がそれに該当
思考停止は心が楽になるんよ😌なぜなら何も問題解決しなくて良い気持ちになるのだから
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