ひばりが歌謡界の表舞台に登場したのは1948年、10歳の頃だ。『東京ブギウギ』が発売され、爆発的なヒットとなった年である。
当時、母親が結成した楽団で歌っていた彼女に歌手の川田晴久がほれ込み、一座にスカウト。
大人顔負けの歌唱力で歌う笠置のモノマネが評判を呼び“ベビー笠置”として大人気となった。

『ブギの女王・笠置シヅ子 心ズキズキワクワクああしんど』(2010年、現代書館)の著者である砂古口早苗氏が言う。

「当初、笠置さんは幼いながらに自分の曲を上手に歌うひばりさんを可愛がっていた。
しかし、この“ブギ禁止令”に世間は『モノマネが本家の人気を追い越した』と色めきたち、
ついには『笠置さんがひばりさんの才能に嫉妬して“ブギ禁止令”を出した』という通説ができたのです」

 砂古口氏の話を裏付けるかのように、ルポライター・竹中労氏の著書『美空ひばり 民衆の心をうたって二十年』(1965年、弘文堂)には、その頃の状況がこのように書かれている。

〈ひばりは笠置シズ子(旧表記)から「舞台で私の歌をうたってはいけない」というクレーム(苦情)をつけられた。
笠置にしてみれば、こましゃくれた小娘が自分そっくりの物真似をするのが腹にすえかねたのだろう。そういう心のせまい、意地の悪いところのある人であった〉

現在でも、美空ひばりの公式ホームページを開くと、年表の1949年1月には「『ヘイヘイ・ブギ』を歌うことを笠置シヅ子に禁じられ、急遽『東京ブギウギ』を歌うことになる」との記述がある。


ひばりは“ブギを歌う天才少女”として名を馳せていく。そのさなかの1949年、
日劇の1月公演『ラブ・パレード』が開催される際に、笠置サイドから、ひばりに笠置の新曲である『ヘイヘイ・ブギ』を歌うな、
という通達がされる(『東京ブギウギ』は許可)。続けて翌年、ハワイ巡業に行く際にも「笠置シヅ子の歌を歌うな」と申し入れがあったという。

「笠置さんから、『急に出てきた子どもが歌って“ブギってこういうものか”と思われたら困ると思っていた』と言われたこともあります。
まだ年端もいかない子どもに、上手く歌われたら腹が立つ。でも、下手に歌われても『ブギってこんなもんじゃない!』と。
努力に裏打ちされたブギに対しては揺るぎない“プライド”があったのです」(同前)

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