現在おこなわれているスポーツのほとんど全ては競争的なものだ。
勝利を得るためにおこなわれ、もし勝利のために最大限の努力をしないのであれば試合はほとんど意味のないものになる。

どちらのチームにつくか選べて郷土愛の感情に巻き込まれることのない、村の草原でおこなわれるようなものであれば純粋な楽しみと運動のためにプレーすることも可能だろう。
しかしそれが威信をかけたものになり、もし負ければ自分とより大きな構成単位の面目が失われると感じるやいなやもっとも野蛮な闘争本能が呼び覚まされるのだ。
学校対抗のフットボールの試合をしたことがあるものであれば誰でも知っていることだ。

国際的なものともなれば率直に言ってスポーツは戦争の模倣になる。
しかし重要なのは選手たちの振る舞いではなく、むしろ観客の態度、そして観客の背後にいる国家の態度だ。
彼らはこの馬鹿げた競争に怒りを爆発させ……短期間とは言え……走ったり、跳ねたり、ボールを蹴ったりすることが国家の徳を試すものだと真剣に信じる。

人々は片方の側が栄誉を得て、もう一方が屈辱にまみれるのを見たいと欲し、不正や群衆の乱入によって得られた勝利は無意味だということを忘れてしまう。
観客が物理的に手出ししない時であっても彼らは味方側に声援を送り、ブーイングや侮蔑の言葉で相手側の選手を「威嚇」することでゲームに影響を与えようとする。
真剣なスポーツはフェアプレーとは無縁だ。
それが密接な関係を持つのは憎しみ、妬み、傲慢、あらゆるルールに対する軽視、そして暴力を目にするというサディスティックな喜びである。
言い換えればそれは戦争から銃撃を引き算したものなのだ。

主にイギリスと合衆国でスポーツは非常に大きな経済活動へと仕立てあげられ、膨大な群衆を惹きつけて野蛮な情熱を喚起することができるようになり、その影響は国から国へと広がっていった。
もっとも広まったのはもっとも暴力的で闘争的なスポーツであるフットボールとボクシングだった。
これらすべてがナショナリズム……つまり巨大な権力単位と自身を同一視し、全ての物事を威信を競い合うという観点からのみ見るという狂った現代の傾向の高まりと密接に関係していることは疑いようもない。

また組織的なスポーツ活動は都市部のコミュニティーで盛んになることが多い。
そこでは平均的な人間は運動不足な生活か少なくとも閉じこもりがちな生活を送り、創造的な仕事をおこなう機会は限られている。
田舎では少年や若い男性は大量の持て余したエネルギーを散歩や水泳、雪合戦や木登りや乗馬といったさまざまなスポーツで解消する。
大都市では体力やサディスティックな衝動のはけ口を求めれば集団による活動でうっぷんを晴らすほかない。

この瞬間に世界に存在する膨大な量の敵意の積み立てをもしさらに増やしたいと思えばフットボールの試合に勝るものはないだろう。
ユダヤ人とアラブ人、ドイツ人とチェコ人、インド人とイギリス人、ロシア人とポーランド人、イタリア人とユーゴスラビア人の間で、それぞれの人種が入り混じった十万の観客が見守るなかおこなわれる試合だ。
もちろん国家間の敵対状態の主な原因の一つがスポーツであると言いたいわけではない。
大規模におこなわれるスポーツそれ自体は私が考えるところではナショナリズムを生み出す原因が引き起こすもうひとつの結果に過ぎない。
だが他のライバルチームと戦わせるために国内王者の称号を与えた十一人の男からなるチームを送り出し、それがどちらであろうが敗れた国はあらゆる点で「面目を失う」と感じることを許せば事態はよりいっそうひどくなる。

ジョージ・オーウェル
1945年「スポーツ精神」