これが弥生時代と古墳時代の銅鏡の分布図の日本地図らしい つまり…分かるな? [集会所] [511393199]
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あのさあ
こんな事されると東北が別の文化圏みたいだから消してくれる? 先に言っとくとアイヌ沖縄をのぞいた日本人はみんなほぼ弥生人で
縄文の遺伝子は5%ほど入ってるだけだからな 東北でも太平洋側、奥六郡で銅鏡が出土してんのはちょっと意外だな
この後の歴史では、朝廷勢力圏は日本海側から広がって、羽州の蝦夷はそれほど大きな抵抗をせずに恭順したのに対し、
奥州の蝦夷の方が朝廷への恭順を拒否したんだろ? >>4
奥羽三関すら知らん小学生はレスせんでええわ嫌儲の質が下がる 東北以南まで半島から渡ってきた勢力に完全に占領されたんだな >>5
エミシは和人だからな
2~3世紀、後漢の終わり頃の倭国大乱の時期に新潟各所では戦乱を彷彿とさせる高地性集落が増え始める。
日本海側では鉄器を求めて朝鮮半島から直接、東北方面へと準構造船船団による組織的交易がもたらされていた。
実際に東北一円、新潟でもそうだがアメリカ式石鏃が残り、朝鮮半島南東部で作られた鉄斧が一斉に普及する様子を知ることが出来る。
弥生期に東北地方や関東地方東北部を中心として急速に普及した管玉の大多数は、並行する側面をもつ朝鮮半島製の管玉である。
https://i.imgur.com/gV9WpIG.png
長野の根塚遺跡から出土した渦巻紋装飾鉄剣は特注品であり、上越から千曲川流域の在地の人々が朝鮮の鉄器制作工人と直接交渉していたことはよく知られている。
朝鮮半島製の青銅器や鉄器は千曲川流域からさらには関東地方まで運ばれ、利器が劇的に移り変わる時期にあたる。
4世紀からはヤマト王権によって伊那盆地が馬の生産管理拠点に定められたことが想定される。
また、そのような馬の導入によって内陸交通網の整備が進み地域間交流が発展したことが、各古墳の多様な様相の背景として想定される。
このように本古墳群は飯田地域がヤマト王権の東国経営拠点かつ東西交通の結節点として機能したことを表象する遺跡であり、
内陸交通網の整備による王権の国づくりの一面を表すとして重要視される遺跡になる。 3~4世紀、近畿勢力・東海勢力の関東・東北への集団移住 日本考古学協会 西川寿勝 2022 年 12 月 17 日
関東平野では東海の土器をもつ集落と近畿の土器をもつ集落がモザイク状に分布。
布留式土器の時代になるとさらに北に進出して分布が広がる。
人々が北へ移住する理由は不明。
https://i.imgur.com/JjWfCJd.png
https://i.imgur.com/xN1nfOC.png 三陸河北新報社2022年8月24日
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。
突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。
ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。
宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群
いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ
当然、さまざまな道も生まれていった。
仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。 5世紀の仙台平野に朝鮮半島から伝わった大規模な須恵器窯跡群が置かれ一大生産地になったのも、この頃外交を担っていた上毛野氏などが先進技術を積極的に取り入れた功績、ではなかろうか。
北東北の古墳時代の開始期には、古墳文化圏から北上してきた土師器が加わり、5世紀になると多くの土師器に須恵器が加わるようになる。7世紀以降には土師器・須恵器のみとなるのである。
土師器は、西日本における弥生土器の製作・焼成技術がほとんどそのまま受け継がれて成立した土器である。器種は壺・甕・台付甕・坏・高坏・甑・器台・小型器台・小型丸底坩などで構成され、文様は基本的に施されない。
東北における古墳時代の土師器の変遷は、塩釜式→南小泉式→引田式→住社式とされ、これらの各型式は現在さらに細分されつつある。
青森県内では塩釜式に並行する土師器が五所川原市隠川遺跡で出土している。
須恵器は5世紀の初頭頃、朝鮮半島南部の陶工の渡来により製作され始めたもので、今のところ大阪府堺市大庭寺遺跡から出土した須恵器が日本最古のものとして知られている。
同市に所在する陶邑古窯群は日本の須恵器生産を一手に担っていたが、須恵器の生産技術はそこから徐々に各地へ広がり、東北地方南部にも及んだ。
東北最古の須恵器窯跡は、5世紀中頃の宮城県仙台市大蓮寺窯跡である。その後、仙台市金山窯跡や福島県泉崎村泉崎古窯跡などでも生産された。この頃の須恵器の器種は壺・甕・埦・高坏・甑・器台などが一般的である。
青森県における古墳時代の須恵器は、十和田湖町長根遺跡や天間林村森ヶ沢遺跡、八戸市市子林遺跡・田向冷水遺跡・八戸城跡、東通村浜尻屋遺跡の出土例が知られている。
長根遺跡の須恵器は大蓮寺窯製品の胎土と類似し、森ヶ沢遺跡の須恵器は畿内産のものと推定されている。 古墳から奈良時代にかけての日本において、東日本あるいは北日本に居住し、当時の中央政権の支配に服さなかった人々はエミシと呼ばれている。
つまり、エミシという言葉そのものが、固有の文化的特徴を共有する、いわゆる民族を指す言葉ではなく、単なる呼称であるといえる。
アテルイの本拠地である奥州胆沢でも常磐広町遺跡など紀元前後の高度な渡来系灌漑水稲集落が見つかっている。
西暦150~280年、宮城県石巻市の梨木畑弥生人骨について
https://i.imgur.com/7xAiJAh.png
頭骨の観察的所見では、顔面が面長で、眼窩も高く、鼻骨は狭長で、現代的な印象が強い
上顎切歯に明らかなシャベル状形質が認められる
四肢骨では、脛骨骨体が扁平でない、脛骨大腿骨示数が78.5程度であること
縄文人やアイヌを想わせる特徴はまったくと言ってよいほど認められない
ミトコンドリアDNAはD5b2
結論としては、梨木畑人骨は明らかに和人であり、現代化した特徴を有していた
東日本古墳時代人の遺伝的特徴は東北地方縄文時代人とは大きく異なる一方、現代人には非常に近かった。
この結果は、古墳時代には既に、渡来型弥生人の遺伝的影響が東日本において集団の主体をなすほど大きくなっていた可能性を示していると考えられた。
https://i.imgur.com/0uLa3a5.png
エミシとは誰だったのか-学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像- すまん銅鏡のレア度からまずわからん
各村に一つくらいあるような普及度だったのか、王だけが持てるようなものだったのか > 葬られたのは女性? 奈良・富雄丸山古墳の木棺から銅鏡3枚など出土
富雄丸山古墳は卑弥呼の墓とか言い出しそうな勢い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています