愛し合う江戸時代の武士たち…衆道(男色)の心得とは何か?武士道の教範『葉隠』かく語りき | 歴史・文化 - Japaaan
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(前略
衆道について、中野式部清明(『葉隠』口述者・山本常朝の祖父)が語ったそうです。
曰く「若気の至りで、一生の恥となることがある。衆道について、心得なく踏み込むのは危険である。言い聞かせる者がおらぬゆえ、それがしが衆道の大意についてお伝えしよう」と。
「女性について『貞女二夫に見(まみ)えず』と言うように、衆道についても二人の伴侶を迎えるべきではない」
「真の愛情は一生涯でただ一人に捧げるべきだ。その覚悟がない相手を愛してはならない」
「さもなくば野郎陰間(男娼)に同じくへらはり女(娼婦)に等しい存在に成り下がってしまう。これは武士にとって恥である」
「井原西鶴が『念友なき前髪は、縁夫を持たぬ女に等しい』と書いたのは、実に名文と言えよう。よい相手がおらぬ者を、人はなぶりたがるものだ」
念友とは衆道の伴侶を指し、前髪とは元服前の少年を指します。
「念友は五年ほど交友関係を持ってみて、確かな志を見届けたならば、こちらから頼むべきだ」
「決して、浮ついた者に心とらわれるべきではない。そういう手合いは少し都合が悪くなれば、簡単に裏切るからである」
「互いに生命を捨てて愛し合う覚悟を固めたならば、よくよく性根を見極めねばならない。この段階でもダメだと見切ったら、一切の未練を断ち切って拒絶すべきだ」
「相手が『拙者のどこがダメなのか』とすがって来ても、理由を一切言ってはならない。どうせ『悪いところは直すから』などと引き止めを図るだろうが、それで直るなら元からとうに直っているものである。相手に余地を残してはならない」
「だからかけるべき言葉はただ一つ。『生命がある内に言うべきことではない』と。これで引き下がればよし、なおもすがりつくような卑怯未練の振る舞いを見せるならば、これは斬り捨てるよりあるまい」
「また、そなたが年長者として若衆を迎え入れることを見届ける時も、基本は同じである」
「『この者のために生命を捨てられるだろうか』五、六年も真摯に想い続け、それが振る舞いに実践できれば、相手も認めてくれるであろう。逆に言えば、それが酌みとれぬような男ならば、その程度と諦めもつくだろう」
「なお、男を愛し女も愛する二道は厳に慎まねばならない。性別は違えど、同時に二人を誠実に愛し抜くなどできないからである」
「二人の主君に対して同時に忠義を尽くせるか、考えてみれば解ることだ」
「とにもかくにも、武士として奉公に励むと共に、文武に己を高め続けよ。それでこそ武士道に適うのだから」
……との事です。
終わりに
一八一 式部に異見あり。若年の時、衆道にて多分一生の恥となる事あり。心得なくして危ふきなり。云ひ聞かする人がなきものなり。大意を申すべし。貞女二夫にまみえずと心得べし。情は一生一人のものなり。さなければ野郎かげまに同じく、へらはり女にひとし。これは武士の恥なり。「念友のなき前髪縁夫もたぬ女にひとし。」と西鶴が書きしは名文なり。人が嬲りたがるものなり。念友は五年程試みて志を見届けたらば、此方よりも頼むべし。浮気者は根に入らず、後には見離す者なり。互に命を捨つる後見ならば、よくよく性根を見届くべきなり。くねる者あらば障ありと云うて、手強く振り切るべし。障はとあらば、それは命の内に申すべきやと云ひて、むたいに申さば腹立て、なほ無理ならば切り捨て申すべし。また男の方は若衆の心底を見届くること前に同じ。命を抛ちて五六年はまれば、叶はぬと云ふ事なし。尤も二道すべからず。武道を励むべし。爰にて武士道となるなり。
※『葉隠聞書』第一巻
以上、衆道の心得について紹介してきました。
(後略