0001番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 警備員[Lv.4][新初] (アウアウウー Sa2d-mZav)
2024/05/15(水) 20:40:59.85ID:yLeaUlCma●?2BP(2000)――柄谷さんは、言葉遊び、引用、パロディー、物語といった「近代文学が閉め出した全領域が回復しはじめた」と指摘していますね。
柄谷 しかし、実際にそうしたことが起こってみると、失望することも多かった。たとえば、角川文庫の変様に象徴されるように、文庫のあり方が変わったでしょう。
――メディアミックスの手法などもあって、古典というよりも売れ筋の本、売りたい本が文庫化される流れになったということですね。
柄谷 それ以前は、文庫に入ることが古典と見なされる条件だったから、ある意味で、文庫が文学の永遠性を体現しているようなところがあったんですよ。「文学全集」もそうだった。実はどちらも昭和初期に広まった消費社会の産物なんだけどね。ただ、“近代文学”には、未来に自分の作品がどう読まれるかという意識があった。でも、そういう意識は壊れていった。要は、いま売れればいい、ということになったんだから。
――文芸時評を書いている最中に中上健次と行った対談では「(今は)文学とつき合うなら、文芸時評以外にはつき合えないっていう感じがする」と語っていた柄谷さんですが、終了後に書いた「時評家の感想」(「理論について――あとがきにかえて」)では、「本当のところはどうでもいい」「私にはほかにやりたいことがある」と言い放っています。
実際、例外的な作品論や作家論を除いて、同時代の文学状況を扱うことはまれになっていきますね。
柄谷 狭い意味での“文学”を放棄した、といえます。いまから見れば、小説が好きだったんだろうな。やっぱり、ある時期までは文学作品もよかった。本当に意味があった。しかし、そういう時代は終わった。村上春樹は境目の作家ですね。デビュー作の『風の歌を聴け』はよかったけどね。ともかく、どの作家がどうのというよりも、小説が持つ意味自体が変わってしまった。
小説が「読める」批評家は 文学の潮目に立ち会った文芸時評:私の謎 柄谷行人回想録⑭
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