【括弧の部分はスレを立てたものによる勝手な補足、気になる方は元論文を参照してください】
(8枚目 29P)
エルフ語なども含めて、瀬田による地名の訳し方は大きく分けて三種類あると言うことができる。一つ目は、主にホビット言葉で名付けられたホビット庄の地名の訳し方で、意味を重視した上である程度自由に訳すというものである(例Water-valleyを豊水谷、Woodhallを館森、White Downsを白ガ丘など、日本の古くから使われている地名に近く、名前が持つ意味が不明瞭)。
二つ目は、共通語で付けられた名前に適用されるもので、逐語訳的に忠実に意味を移し替えている(例White Mountainsを白の山脈、Mirkwoodを闇の森、the Dead Marshesを死者の沼地など、現代的な言葉が使われ、名前の持つイメージが明確に伝わる)。
三つ目は、共通語とは異質な言語に主に適用されるもので、発音を片仮名表記に移し替えるだけとなる(例ミナス・ティリスやカザド=デュムなど)。

このように、瀬田訳『指輪物語』において、地名の訳語は三層に分けられていると言える。ではなぜこのような層構造が作られているのだろうか。これらの層はそれぞれに役割を持っている。
第一層が適用されるのは、ホビット言葉で付けられたホビット庄の地名である。物語はホビット庄から始まり、主人公たちはこの場所を離れて冒険に乗り出していく。この部分を、日本に住む日本語話者の読者にとって違和感のない身近な地名に近付けて訳すことで、読者にホビットへの親近感を抱かせる効果があると言える。
第三の層は、ホビットには理解できない異種族の言葉で付けられた異種族の土地の名である。これを日本語の語彙に置き換えることなく、片仮名で表記することで、聴覚的にも視覚的にも外国語として感受させることができる。そこには、異国に足を踏み入れたという感覚が生じる。
この二つの空間の懸け橋となるのが第二の層である。これが共通語で名付けられた地名の層で、外国語から翻訳された名前という感覚を読者に与える。物語の多くはこの層で進展する。ホビットは、第一の層から第二の層に入り、第三の層にはわずかに接触するのみである。この構造により、読者は自らの生活する現実世界に近い日本風の土地から、特定の座標を持たない架空の場所に誘い込まれ、その向こうに更に異世界を望むという経験をすることになる。瀬田は、言語間の差異を際立たせたいというトールキンの要求を汲んで地名を訳し分けつつ、はっきりと二種類に分けるのではなく段階をつけることで、読者が物語に入り込むことを易しくしていると言えよう。