>>68 開拓者の戦後はよく本やドラマになってるあれ
都市部については俺の母親が奉天に住んでたからその話なんで
本とかで読んだわけではないんだよね
なにぶん当時の母は小学低学年だったので目隠しされてた部分もあったと思うが
・日本が降伏した時の話
当日は爆竹がなったりしてたけど暴動みたい事は起きてなかった
街の代表者が集まって今後の事を話し合った(祖父が参加してた)
街を捨てるか残るかで意見が分かれたが纏まっていた方がいいと残る事を決めた
後に祖父が語ったところによると「街に住んでる日本人全員をどうにかできる事はないはずで
少数でバラバラになるほうが危ない」って判断だったが逃げた方いいって意見も結構強かったそうだ
・戦後
特に食べ物に困った記憶はない(大人になってみたら親は苦労してたかもしれないとの事)
雇っていた中国人女中(多分満人)は敗戦後も働いてた
曾祖父がコックだった関係で祖母が洋食が得意だったので一階を改装して洋食店にした
中華民国の将校がよく食べに来ていた
(今思えば快く思っていない日本人もいたと思う、
お父さん(祖父)どこかからか食糧を調達していたし中国人相手に商売してたしとの事)
そんな感じで暮らしていて一年程して引き上げの順番が回ってきた
荷物は一人一つだったので同じ引き上げ船に乗る日本兵引揚者にお金渡して荷物をもってもらった
そしたらそのまま逃げられた(これは祖母も言っていた事で「あんな時だから仕方ない」って話してた)
日本についたら子供にはアイスキャンデー配られて嬉しかった
(子供でよくわからなかったから、その時はまた引き上げしてもいいなと思ったとの事)
日本に来たらトイレが汲み取りで奉天では水洗便所だったのビックリした
こんな感じ、まぁ中心部に住む正直奉天でも裕福層の日本人だったので全部に当てはまらないと思うけど
一般的に持ってる満州引揚者のイメージって開拓民が都市部に逃げてきた時の混乱なので
都市生活者は逃げてる時に家族とはぐれるとかそういう事は起きてなかったらしい実際母の一家そろって帰国してるわけだしね
母が「満州に居たことを話すと、苦労したのねって言われるけど、そんな記憶はないのよね」って言ってた
ただ母たちがそうして過ごしてるすぐ先の元日本軍駐屯地は避難民で溢れていたんだろう
実際の所は元から住んでた日本人と、逃げてきて駐屯地に詰め込まれてる日本人との間で色々あったのかもしれないが
その辺は大人しか知らない事で祖父は母には話してないみたい
祖父は俺が戦後の混乱とか興味ない高校生の時に死んでるし
母より三つ上の兄も死んじゃってるので
今では色々聞いておけばよかったと後悔してるよ