「リベラルな社会」というのは、「責任能力のある自律した諸個人」というものを前提にしているんだよな

というのも自らの行為に対して責任を持たない、求められない人間が増えすぎると、フリーライドやモラルハザードが大量発生して、社会の秩序が崩壊して全員が損をする事態が発生してしまうため
仮にそのようなフリーライドやモラルハザードを回避して、社会に秩序を取り戻そうとすれば、逆に人々の行動を予めガチガチに制約するしかなくなる
なので、個人の自由は個人の能力とコインの表裏の関係にある

法において制限行為能力者という概念があるのもこの理解に基づく
自らの行為に対して責任を負わされることのない個人は、その無責任性を担保にして、自らの自律的な行為能力を認められなくなる
そしてこのような責任能力/行為能力の閾値は、「普通人」といったある程度標準的なモデルを想定して設定する他はない
ある人にだけはその閾値を下げたり上げたりする、ということはできないので

従って、当該女子アナが中居からの誘いを「断れなかった」ことについて、女子アナの責任を求めることができるかどうかは、この「普通人」のモデルに基づいて判断されるべきだろう
長野智子は女子アナの責任能力を認めたうえで、女子アナには一定の責任があるということを示唆しているのに対し、中野はそのような責任はない(責任能力自体がないのか、責任がないのかは不明)と主張している

まあそもそも家に行くことに同意すること=性行為に同意すること、ではないので、そもそも性行為それ自体に対する「責任」を女子アナが負うべきではないのは明らかだが、他方で「断れる/断れない」という行為能力については、当該女子アナにはその能力があると言うべき
少なくとも性別という属性要素を捨象して、男性であれ女性であれ一般的にあのような状況下で絶対に断れないということが「普通人」の行為能力であるかのような理解は、結果的に普通人の行為能力の閾値を低めて、その自由を制約することに繋がる
あるいは逆に、「普通人」とは関係なく当該女子アナに話を限定して、当該女子アナにはそういった行為能力がない、というのであれば、当該女子アナは普通人の行為能力を持たないのだから、そもそも自由を認められるべきではない、誰かの監督下に常に置かれるべきだということになるだろう

いずれにせよ、ある行為についてそれを行えたか行えなかったか、それについて責任があるのかないのかということは、当然議論されるべきことであって、それ自体を「セカンドレイプ」と封ずるのは馬鹿げている
まあそもそも>>737で書いたように、女子アナは以前に2回も誘いを断っているので、「断れなかった」というのは単なる「嘘」の可能性が高いんだけど