大和王権は日本全体の人が奈良に集まってできた政権であることはあまり知られてないよね [237216734]
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■銅鏡文化
→北部九州
■銅鏡を叩き割って副葬する文化
→北部九州
■埴輪
→岡山(特殊器台)
■前方後円墳
→前方後円形墳丘墓(瀬戸内東部)
■デカい古墳
→楯築墳丘墓(岡山)
■纒向遺跡に持ち込まれた土木具・土器
→東海が最多(愛知)
■纒向遺跡で使われていた土器
→庄内式土器(大阪)
■高温鍛冶技術
→博多遺跡由来(福岡)
https://news.yahoo.co.jp/articles/fadeff224d2850c50046d33b0a4354d5699a6c0b
弥生時代後期までの奈良って社会の階層化が全く進んでなくて、
なんと王墓が存在しないんだよね。
階層化が進んでないから銅鏡を墓に副葬することもなく、みんなで共有した破片を集落に埋める社会。
それが、弥生終末期になると、殆ど脈絡もなく、突如として巨大王墓と巨大居館が現れる。これはもう、外から来たと考えるしか無いんだよね
少なくとも
考古学的にはこの考えがもう通説化してるんだよね
>>68 東海からも来てるんだよね
>>64 大和王権は大和の古い豪族だよ、北部九州の邪馬台国とも関係無い
騎馬民族征服wも(弥生終末〜古墳初期の範囲では)神武東征も無い
まあ2500年前に奈良に到達した根っからの弥生系の土着豪族だろう
邪馬台国が大和朝廷になったん?
それとも邪馬台国とは関係ない勢力なの?
百済と新羅は日本のパシリでした。
魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述
が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、
新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を
広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那
などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代
中期~後期(5~6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも
見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。
と言うわけで、全く問題ないのである。
>>69 そういうしょうもない権威主義な詭弁、いい加減やめた方がいいですよ
そもそも大和王権がなぜ奈良盆地東南部で発祥したか考えてみると、その立地が重要なんだ。
あそこは大和川で瀬戸内海と接続し、東に進めば中勢から東日本太平洋岸全体にアクセスできる場所。
要するに、古代西日本と東日本の物流が出会う場所だったんだよね。そこで交易して利益狙った集団が全国から集まってきたんだろう。
>>73 金印・伝承が伝わってない時点で大和王権=邪馬台国は100%無い
子供でもわかる話
この間、初期ヤマト王権の王墓である桜井茶臼山古墳が発掘されたけど
無数の破砕鏡が出てきたよね。わざわざ鏡を叩き割ってから埋める葬送文化は北部九州で生まれたものだから、初期ヤマト王権の中枢に北部九州系勢力が入っていた蓋然性は無視できないほどに高まっているんだよね
>>80 邪馬台国って当時日本に乱立していた王国の一つなんかね
その中でどれくらいのランクだったんだろう
福岡県の糸島にあった伊都国は、弥生時代に太陽を象徴する大型内行花文鏡を作ってたんだけど
その後、古墳時代初期に大型内行花文鏡に強い執着を見せる集団が別の地域に現れるんだよね。それが大和王権
寄せ集めなのは交易で栄えたからだろうな
それを後年まとめあげられるとすれば経済に強い宗教家くらいか
朝鮮半島の各地から船で偏西風に乗って来た人が琵琶湖を下って奈良に集まってるだけでは
>>84 仰る通り間違いなく交易だろうね
奈良の利といえば東西交易の要衝という点しかない
>>82 よく勘違いされてるが邪馬台国の卑弥呼の時点でその政権(以後北部九州政権とさせて頂く)は
斜陽の政権だったんだよね、大陸王朝に何度も何度も助けを求めてるわけで
位置的に九州北部には済州島から来た人がほとんどなのでは
大和王権発祥の地は纒向遺跡と言われるけど、実は纒向遺跡は最初の数十年間一切王様がいた形跡がないんだ。
王墓も居館跡もない。単なる交易都市の様相であった。
そんな所に突如として、巨大な王墓や居館が建てられ始める。
そうすると、王不在の交易都市が、福岡或いは岡山とかから王様を招聘したのが大和王権の始まりなのかもしれない。
大陸から逃げてきた王族が大和王権を名乗っただけでは
兵庫の山の中にすら百済とか新羅の渡来人が住んでた集落とかあって豪族になってる奴もいるし
朝鮮半島からの渡来人と畿内の人間との連合みたいなのがヤマト王権の発生なんだろな
>>82 九州にあったとしても畿内にあったとしてもダントツトップだろう
何故なら、考古学的に確認できる当時の最大最強勢力が福岡平野(奴国)だからだ。
福岡平野と同盟を結んでいたものが日本を制する。そして分権を信じるならば、当時の福岡平野は倭国に加盟している。
弥生終末期の福岡平野には那珂比恵遺跡群という、2kmの直線道路に面して計画的に行政所、市場、倉庫を配置した計画都市が存在したことが判明している。考古学者が飛鳥時代の遺跡と見間違えたほどに発展していた。
そして少し北に行けば大量の鉄器を生産していた博多遺跡群。
当時日本最強勢力は福岡平野だった。
そして、その奴国の高温鍛冶技術(半島東部の辰韓由来らしい)に使われたフイゴ羽口と全く同じ法量のフイゴ羽口が発見された地域がある。
奈良の纒向と布留遺跡な。
やはり、福岡人が奈良に来ている。
>>75 難波津が整備されたのは古墳中期だったかな
その頃になると伽耶や百済の渡来人が優れた技術を持ってきて、港湾整備できるようになるんだよな
>>72 平安時代に書き残された「八咫鏡」の特徴を具備する鏡が唯一、福岡県糸島市の平原王墓から発見されているよ
なぜ伊勢神宮外宮で記録された『八咫鏡』の特徴全てを具備する鏡が、2000年前の糸島市の王墓から出土したのか?
https://i.imgur.com/43A54ra.jpeg https://i.imgur.com/YuqDlAz.jpeg いや質問を変えよう...なぜ皇室は糸島の鏡を神器として代々継承してきたのか?
そうだね。
古代皇室の祖先の一派が福岡県糸島市からやってきたからなんだよ
奈良が日本の始まり
京都は一時的に都が以前あった街
神を名乗った詐欺師にまんまと騙されて奈良に集まって奴隷化したのが当時のジャッp
遥か時を経て満州でまた大日本帝国詐欺軍に騙されて満州に移民
ソ連が侵攻する前に大日本帝国詐欺軍の幹部は逃げて、時間稼ぎで置いていかれた当時のジャッp
学習してないバカジャッp
>>107 糸島王が奈良から送ったのなら糸島王が奈良に来てたってことじゃん
>>77 いや根拠なら滅茶苦茶述べてるから、反論があるなら筋道立てて反論すればいい
考古学も天文学も歴史学も10年後には違うこと言うから話一割で聞け
奈良が突然栄えだししたのは四国から奈良へ入ってきた勢力が有るからだよ
奈良が栄えだす以前の四国の遺跡が結構凄い
で四国にはどこから来たのか?
それは呉だよ
孫権の晩年は粛清の嵐が吹き荒れ最終的に孫呉は滅びる
その過程で粛清を恐れて逃げ出した貴族がいただろう
その他にも呉が南東の台湾?と思われる島に軍を派遣した記録がある
もしかするともっと古い始皇帝の統一時期に渡った可能性もある
黒潮の流れが強いから長江から東へ進むと屋久島種子島を経由して四国に自動的に流れつく
一部は宮崎に着いて天孫降臨伝説になったと思われる
そうして四国に住み着いた後に何らかの理由で奈良に進出した
裏付けとして
高知で日本最古級の漢字が書かれた土器片が発見されてる
DNAマップでみると畿内と並んで四国は渡来系遺伝子が多いが半島経由の糸目ではない
阿波は鉄が伝わったとされる半島から遠く離れてるのになぜか日本最古級の溶鉄炉がある
日本における漢字の古い音読みが呉音である
倭人が呉の太伯の子孫だと名乗っている
古事記によると降臨した神が最初に作ったのは淡路島と四国である
現役時代偏差値70超えてても20年経つと受験問題が解けなくなるのは日本史だけじゃないのか
そもそもヤマト王権を作った倭人は朝鮮半島からやってきたわけで
文字記録もない未開人がウホウホやってるだけの時代の勢力図とかクソほどどうでもいい
吉備の連中が土木に長けていて各地の有力者の土木担当が奈良に集まって実地習得し造営したのが纏向と言われている
その後、土木集団は全国各地に戻り同じ形式の造営が為されることとなった
>日本全体の人が奈良に集まって
東北の蝦夷を平定したのは平安時代になってからだし
北海道も琉球も当然ながら大和王権に服していなかった
「日本全体の人」ってなんだ?
歴史を知らないのか日本語の文法がおかしいのか言い回しが変だぞ
「日本中から多くの人が集まって」の言い回しの方がいいと思う
東の方の坂東土人は参加してないだろ
勘違いされるから西日本といいなさい
どう見ても九州の豪族が拠点移しただけやろ
日本神話通りやろ
>>123 えー、どう見ても宮崎に拠点を置いてた中国の海賊が瀬戸内へ移動して機内を制圧した話
倭国大乱の果てに奈良に都を造った
これは丁度関東から九州までの真ん中の土地で集まるのに都合が良かったからだ
遣隋使遣唐使や元寇船団見れば分かるが大陸から船で列島を目指せば必然的に北部九州になるのよな
遭難したら鑑真や鉄砲ポルトガル人のような僻地に着く
>>130 薩摩隼人やな
縄文人の文化を受け継いでいたっぽいよな
>>130 鎌倉時代まで竪穴式住居で土器を使ってた坂東沼地のスワンプ土人より1000年は進んでんな
中国が攻めてきたら九州が最前線になるから
当時の有力者たちが政治拠点を考えたとき、
中国から見て奥まった攻めずらい奈良に作ろうとするのが自然
朝鮮半島から来た勢力が九州から入って畿内に定着しただけでは
古墳ー飛鳥時代はまだ大阪平野や関東平野の大半は
海が湿地帯になった頃で
ひとが住めないだろ
>>113 潮に乗って渡航するだけでも運ゲーの時代だぞ
黒潮は流れが強いからこそそう簡単に四国に入れるわけが無いじゃん
寧波出発の江南軍を見れば分かるが対馬海流に乗って北部九州に上陸するしかない
ましてや操船がそんなに簡単なら水先案内で飯食ってた村上水軍が瀬戸内覇権を握ること無かっただろうな
奈良盆地は四方を山に囲まれて小さい河川が毛細血管のように張り巡らされてるから防衛的にも適地だし稲作にとっても適地だよな
>>138 その上今の河内辺りは当時内海だったから経済的にも資源的にも恵まれてたし
俺が神武天皇だったとしてもあそこに都を置くわ
農耕民にとって海の近さは関係ないし
その証拠に中国の歴代の都は内陸の奥の奥と決まってる
>>138 ひとつ棚田は生産効率が落ちるな
逆に多少の不便さとそれに対する工夫が文明の技術発展に寄与するのかも知れないが
中国の長安があった関中平野も奈良盆地に条件は似てる
山に囲まれて区切られた小さな平地だと言う意味で
関中平野は皇帝の住まう場所として王地と呼ばれていた
奈良盆地も王地だと言えるかもしれない
>>136 呉から逃げるんだから運ゲーでもやるしかない
残ったところで古代中国の粛清は一族郎党皆殺しだし
九州南部は日本で最も血の気の多い蛮族隼人の地で上陸したところで殺されただろう
そして九州北部は魏と親交がある敵国だから対馬海流側行ったらアウト
黒潮に乗って運ゲーをクリアして四国にたどりついたラッキーさんだけが生き延びた
(もしかすると熊本辺りの中九州に上陸成功した人もいたかもしれんが)
運ゲーをクリアできた数がそう多くはないから呉から来て圧倒的な文明力を持っていても
いきなり日本を席巻できず辺境の四国で数十年にわたって力を蓄えるしかなかったのさ
大陸から遠い辺境にも関わらず弥生時代終盤における四国の文明力の高さは
呉からやってきた渡来民抜きでは説明がつかない
それに呉から来た人がいなかったとしてどうして倭人が呉の子孫を名乗るという発想が出てくるんだい?
>>121 関東以北は縄文晩期から弥生初期まで人類の集落の形跡が殆ど見られない(長い寒冷期と弥生海退で狩猟採集すら成り立たなくなった)
弥生後期~古墳時代になると西日本人が無人の関東東北へ計画的な移住を開始した
だから関東東北古墳人は渡来系の特徴とゲノムを持つ
5世紀後半から東北の和人はヤマト王権と距離を取り始める
神武天皇の前に奈良を統治してたのが安倍晋三の祖先の長髄彦
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