https://wired.jp/article/star-wars-obi-wan-plot-holes/ 「フィクションである」ことの意味
「スター・ウォーズ」シリーズの現状を見ると、コミック作家のグラント・モリソンの言葉を思い出さずにはいられない。
「大人は『スーパーマンはなぜ飛べるのか』『バットマンは昼間に巨大なビジネスを動かしながら、夜は犯罪と闘っている。どうしてそんなことができるのか』といったことを、愚かにも知りたがる。その答えは幼い子どもでもわかる。『架空の話だから』だ。『リトル・マーメイド』のようにカニが歌うことは現実にはないと、子どもは理解している。でも、大人に架空の物語を提示すると、『スーパーマンはどうやって飛んでいるのか』『目の光線はどういう仕組みなのか』『誰がバットモービルのタイヤに空気を入れているのか』といった本当にくだらない質問が出てくる。これはフィクションなんだ! 誰もタイヤに空気なんか入れてない!」
ジョージ・ルーカスが最初につくったスター・ウォーズは、壮大なおとぎ話だからこそ魅力に溢れている。悪役は黒装束に身を固め、見た目も怖い。一方で英雄たちは笑顔でハグし合い、魔法と善の力で窮地を脱する。かわいらしいロボットやクマもいる。
そして少しでも考えれば、全体の理屈がおかしいことはすぐにわかる。だがそれでいいのだ。いい話であり、ストーリーのテンポもいい。ささいな点は気にしなくていいのだ。
偏狭な世界
問題は、そうした物語が大好きだった子どもたちが大人になり、成長の過程でスター・ウォーズを手放さなかったことにある。その結果、スター・ウォーズの世界はとても偏狭なものになってしまった。
世紀をまたいで公開された新三部作では、ダース・ベイダー誕生の過程が描かれた。だが近年は、過去作のさまつな部分に固執した作品ばかりになっている。
なかでも19年の『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』では、ソロがチューバッカやランド・カルリジアンと出会ったいきさつのみならず、どのようにしてミレニアム・ファルコンを手に入れたか、「ケッセル・ラン」を短時間でどう駆け抜けたのかまでが描かれている。要するに、本編では語られなかったハン・ソロのサイドストーリーが満載なのだ。
理解しがたいことに、「ハン・ソロ」という名前の由来という、まったく予想外かつ不必要な点まで説明されている。いったい誰がそんな情報を知りたがっていたというのか?
当初は本編から独立した新しい作品と思われていたものまでが、過去作の“遺産”を探求しなければならならないという期待に押しつぶされている。「マンダロリアン」の第2シーズンでは、コブ・ヴァンスやアソーカ・タノ、ボバ・フェット、それにCGのルーク・スカイウォーカーが登場したことで、かえって本編が脇に追いやられてしまった。
これをきっかけに、さらにボバ・フェットのスピンオフ作品が生まれた。だが、この作品は83年の『ジェダイの帰還』でボバがサルラックに飲み込まれながら生きながらえたいきさつを説明するという「ファンサービス」以外には、とくに見どころがないものになっている(ネタバレになるが、実は咀嚼されていなかったのだ)。
細切れにされるスター・ウォーズ
ここまでくると、本編のよくできていた部分(息をのむ発明と発見、それに細かい点や常識を気にする余裕も与えないほど、次々と感情を揺さぶる勢いのあるストーリー展開)までもが、ほとんど失われてしまう。代わりにあるのは、ノスタルジーを満たし、既存の知的財産に頼って楽に作品を量産しようという、強迫観念めいた衝動だけだ。
最初の三部作が“ビッグバン”となってすべてが始まり、スター・ウォーズという“宇宙”がどんどん広がっていった。しかし、いまわたしたちは、スター・ウォーズの世界が細切れにされ、内部崩壊を起こしているさまを見せられている。スピンオフ作品は本編の細かい部分に焦点を当てたものばかりで、そこからその細かい部分をさらに細かく描いたスピンオフが生まれているのだ。
スター・ウォーズが真の輝きを取り戻すには、70年代にジョージ・ルーカスが見せたような勘と経験による職人技が必要だろう。彼は少年時代に大好きだった物語を題材としながらも、独自の解釈を加えた作品を生み出した。
しかし、いまわたしたちの前にあるのは、長年のファンにレイア姫がどこで手袋を手に入れたのかを教えてくれる、6話構成のミニシリーズにすぎない。これまでのスター・ウォーズの歴史のどこかの時点で、スター・ウォーズという宇宙は大きく縮小し、ノスタルジーに取り憑かれてしまったようだ。
その結果、いま大きな苦しみのなかにいる。新たな「反乱」のときが来たのかもしれない。