https://madamefigaro.jp/culture/230225-books-01.html

かつて存在した時間の喪失と、再生にまつわる「食」物語。

台所には、どうしようもなく「私」が宿る。たとえば冷蔵庫に入っているのがヨーグルトだけであっても、アロエ入りとか無糖とか、1週間分揃えているとか。

人が息を吸うのと同じくらい、食べることは、生きようとする行動だ。だからこそ食を司る台所は、その家へ帰り、服を脱ぎ、眠り、そして今日も食べる家主たちの「生きる」を、本人も気づかぬままに映し出す。

本書はそうした、台所が語る言葉に耳を傾け「生きる」を紐解いていくノンフィクション。「喪失と再生」をテーマとする、22の物語が収められている。

夫のいなくなった家に遺されたショーケース型の冷蔵庫に、あたりまえのごとく縦に置かれたヱビスビール瓶。母が愛読していた、文字だけの料理本を見て和食を作る男性。難病の父を介護した中1男子が、深夜の台所で作り続けた甘いお菓子。心身のバランスを崩しがちな妻のために、せっせと手料理を振る舞う夫の「僕は、ひとりならペヤングの焼きそばでいいんです」という言葉。命を縮めても好きなタバコと酒をやめず、自分らしい人生をまっとうした棺の夫へ、唇にしめらせた赤ワイン。

筆者の大平一枝さんは「何も失ったものがない人などいない」と語り、そのひと言は、読み手の心の蓋を開ける。自分も同じだ。いや、きっとみんな何かを失いながら蓋をして、大丈夫な顔をして生きているのだ、と。

登場人物は市井の人々だが、セクシャルマイノリティ、ヤングケアラー、高齢者のひとり暮らしなど異なった事情を抱えている。それぞれの喪失。かつてたしかに存在した時間を大平さんは想像し、ときに取材者として葛藤もする。その思考の波に揺られて、いつの間にか読み手もまた台所で話を訊き、感情を分け合うことになる。

ゆっくりと顔を上げて踏み出す彼らの姿に、読み手の喪失も肯定されていく。癒えることはなくとも、やっていけるよ、と背中をさすってもらった気がするのだ。