映画祭の役割は賞だけじゃない。押井守監督がほぼノンストップで語るアニメ文化の継承と業界の問題点

「アート」と「商業」。二極化する理由とその根本的な違い

―押井監督はアニメがアート系作品と商業作品とで分断されていることを課題として指摘されています。その分断はなぜ起こっているのでしょうか?

押井:そもそも一般的な商業アニメとアート系アニメとでは、ポップスとクラシックくらいの違いがあるんですよ。動機も違えば、やっている人も違う。アート系アニメーションはヨーロッパで始まって、個人作家や少人数のチームによる作品がほとんど。そして、制作の動機はいろいろあるけれども、アート系作品は商業的な成功を目指すものではなく作家が考える芸術的な表現をしたいというのが基本なんです。

また、作品の多くは短編です。なぜならアニメーションは作品の時間と制作費が比例するため長編だとお金がかかるから。商業アニメーションの仕事は、テレビシリーズだと最低200人が必要だし、映画だと1000人以上が関わって平気で2~3年かかるので、どちらにせよ億単位のお金が必要なんですよ。だから漫画や小説、音楽と違って、商業アニメは作家個人の動機でできる世界じゃないんですよ。


押井:そうした制作コストは作品の内容にも影響していて、基本的には商業映画=エンタメだから、かわいい女の子だったり、戦争だったり、ロボットだったりがでてくる。まぁ、簡単に言えば「暴力とエロに満ち満ちた世界」が描かれるわけです。多少は泣かされるドラマがあったりしても、広い意味で言えば、どれも「エロと暴力の世界」。もっともこれは私の言葉ではなく、ゴダールの『気狂いピエロ』の劇中で、アメリカの映画監督サミュエル・フラーが言ったことなんだけれども、私はそれに非常に共感するわけですよ。私がアニメーションとか映画をつくっているときも、基本的にはこの2つしかないですから。もちろん、そこから出発して多少の批評的意識や、時代に関して言いたいこと、あるいは予感や文明批判、人間の実存への問いなどが描かれることもありますが、はっきり言って商業映画の本質は「エロと暴力」です。

だからエンタメの長編作品には、「言いたいことがある」って作品もあるけど、多くのロボットものとかアクションものがそうであるように「ただ単純に快感原則を追求する」作品もある。最近はさすがに「何にも言いたいことないけどつくりました」という作品はなくなってきて、それなりにどの作品にも主張があるようになってきていますけどね。

一方で、アートとは表現それ自体だから、別に主張は必要ない。もちろんユーリ・ノルシュテインみたいに、言いたいことがあるアート系アニメーションの作家もいますけどね。


「新海誠が登場したとき、アニメの制作現場に動揺が走った」

押井:そして、もっと言えば「商業エンタメ作品というのはそれ自体が社会的行為でもある」と私は思うんですよ。お客さんに観てもらうことを含めた仕事=営利行為である時点で、商業エンタメ作品は社会性と切り離せない。そうした社会性をバックボーンに持っているからこそ、作品に主張とテーマがあり得る。そしていまのお客さんにヒットしないと意味がないから、どうしても時代性を背負うわけ。だから、商業映画っていうのはさ、『エヴァ(新世紀エヴァンゲリオン)』だろうがヘチマだろうが……ヘチマって言うのはあれだけど(笑)、必ず社会性と時代性を持っている。でもアート系アニメーションは時代を背負う必要がない。そういう違いが明快にある。だから、商業作品とアート系とでは同じアニメーション表現ではあるけど、アニメと実写、アニメと漫画以上に違う。単にジャンルが違うとか客層が違うとかじゃなくて、別の行為なんです。

でも、それを検証する場がいままでなかった。だからアート系作品と商業作品の両方を対象としたこの『新潟国際アニメーション映画祭」、アジアどころか世界を見ても似たものがほとんどない催しだと思いますよ。一応、『アニー賞』や『アヌシー国際アニメーション映画祭』はあるけど、やっぱりどこかアート寄りなんですよね。私が原作・脚本を担当した『人狼 JIN-ROH』っていう作品がアヌシーにいったけど、あれは文芸っぽい要素が濃厚だったからであって、ギリギリなんじゃないかな。もし『人狼』が撃ちまくりのアクション映画だったらお呼びじゃなかったと思う。ましてや『エヴァ』だの『ガンダム(機動戦士ガンダム)』だのじゃ可能性もない。特にヨーロッパは、そういうアート系と商業作品を区別する意識が強いから。



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