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中国上海市虹口区の書店「1927魯迅・内山記念書局」で2日、中国の文豪、魯迅(ろじん)自筆の日本語の手紙など新たに見つかった文献の一般公開が始まった。美しい桜の季節に、中日文学交流の懐かしい記憶がよみがえる。
文献は全て、書店の玄関ホールに設けられた展示スペースに並べられた。書店は魯迅が日本の友人である内山書店店主の内山完造と知り合った場所で、歴史資料を参考に当時の様子が復元されている。数多くの展示品の中で最も注目が集まっているのは、魯迅が内山完造に宛てて日本語でしたためた1通の手紙だ。黄ばんだ紙に書かれた日本語は流ちょうな筆跡で、書き出しは「老板(店主)」、署名は英字の「L」(魯迅のイニシャル)となっている。
考証によると、手紙は1936年8月26日に書かれた。「写真之類」は訳しにくい文章なので訳文を鹿地さんに見せたらどうかという内容が記されており、ここから魯迅と日本人作家で翻訳者の鹿地亘との信頼関係がうかがえる。
鹿地亘は本名を瀬口貢という。東京帝国大学を卒業後、1930年代に上海へ渡り、内山完造を通じて魯迅と知り合った。その後、日本の出版社の改造社のため、中国の若手作家の文学作品を数多く翻訳、紹介した。魯迅とは深い友情で結ばれ、36年10月22日の魯迅の葬儀には扶霊人の一人として友人を見送った。魯迅の妻、許広平(きょ・こうへい)の回顧録によると、魯迅が亡くなる前、最後に訪ねたのが鹿地夫妻の家で、1時間にわたり語り合ったという。
魯迅の手紙とともに、鹿地が自身の両親に宛てた手紙も展示されている。そこには「師であり友である人を失い、悲しみに暮れている。亡くなる2日前、魯迅先生が突然訪ねてきたので、私たちは大喜びで1時間余りさまざまな話をした」と魯迅との最後の場面が記されていた。
手紙には「風が吹き、急に冷えてきた。しかし魯迅先生は私たちの見送りを断って、一人で風の中に出て行った。今でもその様が見えるようだ。私と先生との間には、他の誰よりも強い国境を越えた絆がある」ともつづられている。
鹿地の家族は数年前、遺品の中から貴重な手紙や手書きのメモを多数発見した。これらを中国で展示してほしいと人を通じて伝えていたところ、このほどその願いが実現した。展示と並行して、中国の多くの魯迅研究者が上海に集まり、新たに公開された貴重な文献の意義と価値について研究と討論を行っている。
日本の文化人、内山完造が1917年、上海に設立した「内山書店」は魯迅作品の販売代理店であり、晩年の魯迅にとっては居間のような場所でもあった。上海市虹口区により、当時の店構えが復元され、2022年11月に一般公開された。これまでに内外の魯迅作品のファンや観光客4万人余りが訪れた。
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