「ここで毒ガス弾を作りよるということは一切口外しちゃいけん」

太平洋戦争中、極秘で“毒ガス弾”を製造していた工場が北九州市にありました。
国際条約で使用が禁止されていた“毒ガス弾”
その存在は長く伏せられ、資料はほとんど残っていません。

終戦から78年。当時の製造工場の建物から、戦争の負の歴史をたどりました

畠山治郎さんは工場が開設された昭和12年から終戦までの8年間、毒ガスを砲弾に詰める作業をしていました。

毒ガスによる後遺症が残り、戦後は慢性的な気管支炎に苦しみました。
畠山治郎さん(1991年の番組より)
「これは本当にガスの、イペリット(毒ガス)なんですよ。白いのは水泡のできとった跡です。
しみになっとる。他のところもガスで色が変色しとるでしょう」

「せきが出る、のどが痛くなる、目が赤く充血するくらいで直接苦痛を感じんから何とも思っていなかったですよ」
「まあ私あたりはこうして元気でおって、友達の中には早く亡くなった人もおる」

吉岡成夫さん(1991年の番組より)
「毒ガス弾を製造しよるということは一切口外したらいけんという誓約書を入れてあるからね。
戦時中はもちろん戦後もこういうことは一切お互い言うまいぞということで別れとるんやから」

「恥部やからこれは。条約に反して作り寄ったっちゅう恥部でしょ。だから徹底的に証拠隠滅してますよ」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230815/k10014158951000.html