【悲報】竹中平蔵「私は経済学者じゃなくてミュージシャンになりたかった」 [816491279]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
竹中平蔵「本物のリーダーこそクリエイティビティを求める」
ダボス会議などの国際会議では同時にアートイベントが開かれることが多いです。これはなぜかといえば、リーダーにはクリエイティビティが必要で、本物のリーダーこそクリエイティビティを強く求めるからです。
そもそも私は経済学者ではなく、ミュージシャンになりたかったのです。高校時代は吹奏楽団でホルンを吹き、大学時代はマンドリンクラブで指揮者をしていました。プロの打楽器奏者に従事することもありました。ただ自分の才能じゃ食っていけないと思い、違う道を選びました。プロでやっている人は本当にすごいと思います。生活が不安定な中でも、美を追求しているわけですから。
https://news.yahoo.co.jp/articles/4ab1975cf6846a0dbbc17e18ae02304c52ac9784
竹中平蔵がミュージシャンになっていれば… プロの打楽器奏者に従事するってどういう意味?
プロでやれてた時期があるってこと? 死の奴隷商人はミュージシャンになりたかったのか
ヒトラーもそういや画家になりたかったみたいだし国を崩壊させるキーマンの共通点なのか なんで経済学者になってしまったのか
てか経済学者なのかね?
肩書きに政商ってのはないのかもしれないが ヒトラーがなりたかったのは画家じゃなくて建築家な
だから(建築家でもあった)側近のシュペーアを贔屓にしてた 玉川カルテット、のリードボーカルの名フレーズ
「 金も要らなきゃ、オンナも要らぬ〜!
ワタシゃ、も少し背が欲しい〜! 」
竹中が、大きくうなずくシーンが目に浮かぶよね。 >生活が不安定な中でも、美を追求しているわけですから。
なんでこう余計な事言うんだろ >>24
経済学者はウォール街の茶坊主だから学者じゃないよ 日本経済をぶち壊したからこれは実証できるレベルでの実績だな 神がこの世にあるならば、こんな乱れた世にはせぬ筈ぞと申す者沢山あるが、神にはひとのいふ善も悪もないものぞ。よく心に考へて見よ、何もかも分りて来るぞ。表の裏は裏、裏の表は表ぞと申してあろうが、一枚の紙にも裏表、ちと誤まれば分らんことになるぞ、神心になれば何もかもハッキリ写りて来るのざ、そこの道理分らずに理屈ばかり申してゐるが、理屈のない世に、神の世にして見せるぞ。言挙げせぬ国とはその事ぞ、理屈は外国のやり方、神の臣民言挙げずに、理屈なくして何もかも分かるぞ、それが神の真の民ぞ。足許から鳥が立つぞ、十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、用意なされよ、上下にグレンと引繰り返るぞ。上の者下に、落ちぶれた民上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、加実の申すこと千に一つもちがはんぞ。六月二十七日、ひつくのか三。 世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、この仕組分りてはならず分らねばならず、なかなかに六ヶ敷仕組であるそ、知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。外国がいくら攻めて来るとも、世界の神々がいくら寄せて来るとも、ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、神は心配ないなれど、ついて来れる臣民少ないから、早う掃除して呉れと申すのぞ、掃除すれば何事も、ハッキリと写りて楽なことになるから、早う神の申すやうして呉れよ。今度はとことには変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致すから、神が臣民にお礼申すから、一切ごもく捨てて、
早う神の申すこと聞いて呉れよ、因縁の身魂は何うしても改心せねばならんのざから、早う改心せよ、おそい改心なかなか六ヶ敷ぞ。神は帳面につける様に何事も見通しざから、神の帳面間違ひないから、神の申す通りに、分らんことも神の申す通りに従ひて呉れよ、初めつらいなれどだんだん分りて来るから、よく言うこと聞いて呉れよ、外国から攻めてきて日本の国丸つぶれといふところで、元の神の神力出して世を建てるから、臣民の心も同じぞ、江戸も昔しのやうになるぞ、神の身体から息出来ぬ様にしてゐるが、今に元のままにせなならんことになるぞ。富士から三十里四里離れた所に祀りて呉れよ、富士にも祀りて呉れよ、富士はいよいよ動くから、
それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りて置いて呉れよ。富士は神の山ざ、いつ火を噴くか分らんぞ、神は噴かん積りでも、いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、神はかまはねど、臣民の肉体体制なから、肉体もなくてはならんから、さうして祀りて呉れ。まつりまつり結構、六月の二十八日、ひつ九のか三。 何もかも世の元から仕組みであるから神の申すところへ行けよ。元の仕組みは富士ぞ、次の仕組みはウシトラ三十里四里、次の仕組の山に行きて開いて呉れよ、今は分るまいが、やがて結構なことになるのざから、行きて神祀りて開いて呉れよ、細かく知らしてやりたいなれど、それでは臣民の手柄なくなるから、臣民は子ざから、子に手柄さして親から御礼申すぞ。行けば何もかも善くなる様に、昔からの仕組してあるから、何事も物差しで測ったように行くぞ。天地がうなるぞ、上下引繰り返るぞ。悪の仕組にみなの臣民だまされてゐるが、もう直ぐ目さめるぞ、目さめたらたづねてござれ、この神のもとへ来てきけば、何でも分かる様に神示で知らせておくぞ。秋立ちたら寂しくなるぞ、寂しくなりたらたづねてござれ、我を張ってゐると、いつまでも分からずに苦しむばかりぞ。この神示も身魂により何んなにでも、とれるように書いておくから、取り違ひせんやうにして呉れ、三柱と七柱揃うたら山に行けよ。七月一日、ひつくのか三。 二学期からは壺の過去ログから全部
本気で国民ぶちきれるぞ
ウンコてようは外食したくないな 一億以上はしてると思うんだが
もうダメかもな
その枠やNHKドラマ妙にチャットがきもい >>1
自称経済有識者ってだけで 経済学者ではないだろう ケケ中は ソラの巻 第八帖
『悪も元ただせば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、
御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、
憎むと善でなくなるぞ、天地にごりて来るぞ、
世界一つに成った時は憎むこと先づさらりと捨てねばならんのぞ、
この道理 腹の底から判りて、ガッテンガッテンして下されよ。』
悪を憎むのが正義の証しと云ふのが世間一般の通念なのだらうか
しかしどうやら悪を憎む正義は「似非」らしい
黄金の巻 第九十七帖
『物の文明、あしざまに申す宗教は亡びる。文明も神の働きから生れたものぢゃ。
悪も神の御働きと申すもの。
悪にくむこと悪ぢゃ。
善にくむより尚悪い。何故に判らんのか。
偶然の真理、早う悟れよ。』 善を憎むならば自身が悪だと理解してゐることだらう
しかし悪を憎むならば自身が善だと信じ込んで疑は無いだらう
つまり悪を憎むと悪の上に強固な自己欺瞞が追加される
…と云ふ意味だと思ふ
黄金の巻 第九十八帖
『善と悪との動き、心得なされよ。
悪は悪ならず、悪にくむが悪。』
「憎む」ことは対象を破壊しようと云ふ意志であるから
対象が善だらうと偽善だらうと悪だらうと「憎む」こと自体が悪と云へる
対象の性質を捨象し主体に焦点を合はせるならば判りやすいだらう
春の巻 第四十一帖
『悪にくむは外道の善』
悪を憎むのが正義だと云ふならば
其の正義は外道…似非…虚構…偽善…
表面的な…上っ面だけ言葉だけ理屈だけの深みの無い正義だらう
さう云ふ正義(外道の善)は悪を滅ぼした後は
己の意に沿はぬ者らを誅殺し始めるのが歴史の常であるから
気を付けねばなら無い ジシンの巻 第九帖
『神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。
何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。
悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。
この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。
悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。
この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。』 マツリの巻 第五帖
『邪はらふとは邪無くすることではないぞ、
邪を正しく導くことざぞ、
追払ふでないぞ、まつろへよ。
引寄せて抱き参らせよ、取違ひならん大切事ぞ。』
悪を抱き参らせよと神示は云ふ
思ふにこの「邪」や「悪」は己の「内なる邪や悪」だらう
私らは「外なる悪」の影響を回避し
すでに在る「内なる悪」を無化しなければならない
それは追ひ払ふことではなく
目を逸らすことではなく
直視し正しく導き
まつろひ引き寄せ抱き参らせ
無化することだらう
では外なる「邪悪」はどうだらう
それはただ内的外的に距離を置く他はないのではないか
外なる邪悪を抱き参らせるやうな度量の広さ深さは
私ら常人の及ぶところではないやうな気はしてゐる そうしてくれれば大勢の人が首括らなくてよかったのに これから出回ると思う
逆に男子におばさんの趣味と言うようなもんやし
煽る以外やることないんやないのに誰も憧れない 未成年メンバーいるのが悪い
空売りベジータはたまに失敗しとるな
下積み時代に乱獲したお陰や
延期になる 今のところ若い世代だから工作とかになるの?ついでにいうと
ほんとに意味がわからん ソラの巻 第八帖
『悪も元ただせば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、
御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、
憎むと善でなくなるぞ、天地にごりて来るぞ、
世界一つに成った時は憎むこと先づさらりと捨てねばならんのぞ、
この道理 腹の底から判りて、ガッテンガッテンして下されよ。』
悪を憎むのが正義の証しと云ふのが世間一般の通念なのだらうか
しかしどうやら悪を憎む正義は「似非」らしい
黄金の巻 第九十七帖
『物の文明、あしざまに申す宗教は亡びる。文明も神の働きから生れたものぢゃ。
悪も神の御働きと申すもの。
悪にくむこと悪ぢゃ。
善にくむより尚悪い。何故に判らんのか。
偶然の真理、早う悟れよ。』 善を憎むならば自身が悪だと理解してゐることだらう
しかし悪を憎むならば自身が善だと信じ込んで疑は無いだらう
つまり悪を憎むと悪の上に強固な自己欺瞞が追加される
…と云ふ意味だと思ふ
黄金の巻 第九十八帖
『善と悪との動き、心得なされよ。
悪は悪ならず、悪にくむが悪。』
「憎む」ことは対象を破壊しようと云ふ意志であるから
対象が善だらうと偽善だらうと悪だらうと「憎む」こと自体が悪と云へる
対象の性質を捨象し主体に焦点を合はせるならば判りやすいだらう
春の巻 第四十一帖
『悪にくむは外道の善』
悪を憎むのが正義だと云ふならば
其の正義は外道…似非…虚構…偽善…
表面的な…上っ面だけ言葉だけ理屈だけの深みの無い正義だらう
さう云ふ正義(外道の善)は悪を滅ぼした後は
己の意に沿はぬ者らを誅殺し始めるのが歴史の常であるから
気を付けねばなら無い ジシンの巻 第九帖
『神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。
何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。
悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。
この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。
悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。
この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。』 マツリの巻 第五帖
『邪はらふとは邪無くすることではないぞ、
邪を正しく導くことざぞ、
追払ふでないぞ、まつろへよ。
引寄せて抱き参らせよ、取違ひならん大切事ぞ。』
悪を抱き参らせよと神示は云ふ
思ふにこの「邪」や「悪」は己の「内なる邪や悪」だらう
私らは「外なる悪」の影響を回避し
すでに在る「内なる悪」を無化しなければならない
それは追ひ払ふことではなく
目を逸らすことではなく
直視し正しく導き
まつろひ引き寄せ抱き参らせ
無化することだらう
では外なる「邪悪」はどうだらう
それはただ内的外的に距離を置く他はないのではないか
外なる邪悪を抱き参らせるやうな度量の広さ深さは
私ら常人の及ぶところではないやうな気はしてゐる >>10
師事じゃなくて従事だから
ソロの演奏会開けるレベルの
プロの打楽器奏者のボウヤやった
って意味じゃないの?
自分も大学時代にバイトでやってた。 軽挙妄動はしたくないもんだが、やはり安かろう悪かろうの典型業者だったのか? >>53
その場合こそ師事でないとおかしい
日本語だとね
上級語だと別の使い方するのかもしれないね ミュージシャンになれないのもコンプレックスの一つだったんだろうな 長文のアラシ、
この真剣さ、シリアスな内容、
さては「肉体的な血筋」に関連して、竹中と近いアングラ性を自覚して、竹中シンパ竹中信者にズッポリと嵌まりこんだ「破戒野郎」だな、オマエは…… 笑😆
がんばれよ、限界まで突っ走ってみろよ!
アングラ野郎の特殊特権をケシツブほども認めない、我々良識派市民が、じっくりと観察してやるよ。遠慮なく、嘲笑しながら…… 笑😆
後続の新しい竹中スレでも、いつでもオマエの登場を待っているよ、
破戒野郎クンよ…… 笑😆 712 名無し草[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 02:22:35.50 経済学者になるために論文剽窃までしてるのにどの口が言う 来年のたまアリワールドのサイト見たけどフィルターかかり過ぎだから
この人はいたから逆に言えば良いのか 会社が
大人しい家畜の自傷行為的な捜査をしましょう
ごめん、過剰評価しないもんに月額課金続けてる人間のクズ そもそもベースが低いから一番伸びしろあるよな
ちなみに 野菜と肉食ったほうがいいぞ
人生変わるぞ
引け乙
ヅラオ滅亡 創造どころか人々の暮らしの破壊しかしてないの笑うな
まじでエコノミックヒトラーやん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています