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ポルトガル語を理解し現地の報道に触れていたごく少数の人々だけが、日本の敗戦を認識する“負け組”となった。その多くは都市部のインテリや産業組合の幹部で、従来から日本移民のエスタブリッシュメントと目されていた者たちである。

1945年の後半になると、天皇陛下が直々に発した終戦の詔書や、東京湾上のミズーリ号で行われた降服調印式の写真をはじめ、日本の敗戦を示す証拠がブラジルにも入って来るようになる。すると“負け組”の人々はこれらを用いて“勝ち組”に敗戦を認めさせる「認識運動」という運動を展開した。

ところがこれは逆効果だった。一般大衆である“勝ち組”からすれば、指導者層であるはずの少数の“負け組”が敗戦を流布するのは、裏切りに思えたのだ。しかも“負け組”の中にはこちらが正しいとばかりに高圧的に敗戦という「事実」を“勝ち組”に押しつけようとする者も少なくなかった。

“勝ち組”は「やつらは祖国を貶める国賊だ」と“負け組”への反発を強めてゆく。敗戦の証拠とされた詔書や写真も「捏造だ」「陰謀だ」と信じようとしなかった。降服調印式の写真などは「アメリカが降服したのだ」と、玉音放送と同様に事実と真逆の解釈がされた。

やがて“勝ち組”の人々の間で、国賊である“負け組”に天誅を降すべきだといった空気が醸成されるようになる。

そして終戦の翌年、1946年3月、バストスという土地で現地の“負け組”の中心人物が暗殺される事件が起きてしまったのだ。これを皮切りにサンパウロ州の各地で“勝ち組”による“負け組”へのテロが続発する。“負け組”も自警団を組織したりブラジル当局へ通報するなどして対抗した。

テロはおよそ10カ月も続き、定説としては23人が暗殺により命を落としたとされている。犠牲者の大半は“負け組”だが、“勝ち組”にも“負け組”の自警団に殺害された者や、騒乱の中で死傷した者がいた。

また“負け組”と協力関係にあったブラジル当局は、“勝ち組”に対し拷問を加え「日本は負けた」と言わせたり、踏み絵のように天皇陛下の写真を踏ませるなど強引な取り締まりを行った。暴力が連鎖するまさに「抗争」である。

テロの実行犯が次々逮捕されたのに加え、1946年の後半から日本との手紙のやりとりや邦字新聞の発行が解禁され、正しい情報が流通する経路が広くなったこともあり、1947年1月を最後に、(少なくとも暗殺のような)テロ事件は起きなくなる。ただし解禁された邦字新聞の中には“勝ち組”の立場のものもあり、“勝ち組”と“負け組”の対立は1950年代の半ば頃まで続いた。

こういった混乱の時期は、詐欺師が暗躍するのも世の常である。対立を利用した詐欺事件も多発した。騙されたのは主に“勝ち組”だ。「日本が勝ったから円の価値が上がる」とすでに紙クズになっていた旧円を売りつける「円売り詐欺」や、「大東亜共栄圏の土地を売ってやる」と架空の土地を売る詐欺、戦勝国となった日本に凱旋したいという気持ちにつけ込んだ帰国詐欺などが横行した。1950年代にはお忍びでやってきた皇族に成りすました男女が信奉者に貢がせる「偽宮事件」など奇妙な事件も起きている。

こうしてさまざまな混乱に見舞われたブラジルの日本移民社会だったが、1952年に日本とブラジルの国交が正常化し人と情報の行き来が活発になるとさすがに敗戦の事実は明らかとなり、かつて大勢を占めた“勝ち組”も徐々に“負け組”へと宗旨変えをしてゆく。

そして1954年の「サンパウロ市創立400年祭」を機に日本移民たちは団結へと踏み出した。このとき団結を疎外しかねないこの抗争のことはタブー化された。公の場で語られることはなくなり、邦字新聞も記事を載せなくなる。そのうちに世代交代が進み、抗争を知らない戦後の日本移民も多くブラジルにやってきて、やがて抗争の記憶はブラジル日本移民社会の中でも薄らいでいった。現在では日本にルーツを持つ日系ブラジル人の人々でも、このことを知っている人は少数となっている。

忘れられた悲劇というべきこの抗争を、過去のことと笑えるだろうか? そんなことはあるまい。現代では、ほとんどラジオしかなかった当時と違いSNSをはじめ様々な情報技術が発達している。しかしそんな現代でも、いや、そんな現代だからこそ、人は自分に都合のいい情報だけを選んで触れるようになった。「信じたいものを信じる」という人間の性質は何も変わっていない。フェイクニュースや陰謀論、コロナに関するデマが横行し、人々の分断が加速する現代だからこそ、問う意味があると思う。