家を制度として制定したのは1898年の明治民法です。家制度の政治的な目的の一つに、天皇制の国家体制を支えることがありました。
家長である戸主と家族の関係を天皇と国民の関係になぞらえたのです。天皇は国の家長である、と。こうした考えは、親孝行などを説く教育勅語などを通じて浸透していきました。

戦後の民法改正で家制度は廃止されました。それなのに、いまも慣習などに「家」という意識が残っているのは、戦後改革で民主主義の徹底が不十分だったからでしょう。
戦後、GHQからは家制度の廃止を求められましたが、政治家や資産家の中には強い抵抗がありました。彼らを説得するために、ある民法学者は「制度としての家はなくなるが、
家族の共同生活は存続し、家族は同じ氏を名乗る」と説明しています。氏が家と同じ役割をするから大丈夫だ、ということです。当時、ある憲法学者はこのことを見抜いて、「家破れて氏あり」と批判しました。

その結果、氏は個人の呼称になったはずなのに、実態は男系の氏の継承という家制度の名残として存在し続けています。選択的夫婦別姓に反対する人たちの中に、
「国のあり方が変わる」という意見があります。家制度が廃止された以上、国のあり方と氏を結びつける合理的根拠は何もないのに、そうした感覚は脈々と続いています。
女性は結婚すると男性の家に入るという意識も残っています。今は結婚すると夫婦の新しい戸籍をつくるのに、「入籍」という言葉はなくなりません。心理的支配や従属関係が続いています。

家制度のもとで、国民に家父長制的な意識が浸透してしまったことも大きいでしょう。明治民法で妻は「無能力者」とされ、働くには夫の許可が必要で、
妻が夫の許可を得て働いて得た財産や実家からの持参財産などは夫に管理されていました。家制度の廃止に伴い、新しい家族像として示されたのは、対等な夫婦を中心とする、話し合いで決めていく家族でした。
ところが、女性の働く場所は保障されず、高度成長期には性別役割分業が固定化されました。経済的に自立できなければ、どうしても立場は弱くなります。
対等な夫婦関係を実現するためには、社会の制度も変えなければいけなかったのです。

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