武田軍は織田・徳川連合軍に比肩するほどの鉄砲を投入していたはずなのに、いったいぜんたい何故「鉄砲で散々に撃ちかける」と織田・徳川連合軍サイドの鉄砲ばっかりが脚光を浴びることになってしまったのだろう?

 これじゃまるで武田軍には鉄砲が無かったみたいじゃないか。

 成瀬家所蔵の『長篠合戦図屏風』(同系統の図屏風の中で最も古い。江戸時代前期頃の成立か)を見ても、武田軍の鉄砲は、えーと、4挺しか描かれていない。
最前線で武者が抱える2挺、同じく最前線で持ち主が戦死して地面に投げ出された1挺、最前線に向かう鉄砲足軽が抱える1挺。

 これはいったい何を意味するのか。当時の人も、半世紀後の人も、武田軍の鉄砲についてはうっすらとしか認識しなかったのはなぜか。

 答えはひとつ。武田軍の鉄砲の存在感が無かったからだ。ではなぜ存在感が無かったか。

永禄7年(1564年)の武田家書状だ。第五次川中島合戦の直後に、家臣が領内の神社に「鉄砲玉の御用に」と悪銭の納入を命じたものだ。

 悪銭とは鐚銭(びたせん。劣化して質の悪い銅貨)のことで、武田家が銅を弾薬に使用していたことがわかる。
黄金で買い上げる、とも言っているから、よほど銅が不足していたのだろう。

なけなしのカナ山鉛鉱も奪われ、黄金の精錬にも支障を来すようになった武田家は、さらに銅製弾にシフトする。

 だが、その銅製の鉄砲玉すらも、武田領内での銅の不足によって十分に製造できなかったことは上掲の書状によって簡単に推測できる。
それから11年経って、織田家が着々と覇権を強めていく中ではさらに銅も鉛も領内への輸入は困難になり、一層銃弾の備蓄は乏しくなっていく。

火薬は硝石(しょうせき)から作られるのだが、日本では採掘できないので海外からの輸入が頼り。
その部分も中央を握る信長が押さえているから、武田領にはなかなか入って来ない。家臣にとっても「殿様の手に入らんものをおらんとうで支度せよとはぶんでもねえ!(殿様でも入手できないものを私たちに準備せよとは、とんでもない)」ってなものだ。

そんなこんなで、おそらく武田軍の鉄砲は開戦当初の一斉射撃で弾薬ともに尽きてしまっただろう。
しかも、銅も足りずに陶製や鉄製などの鉄砲玉も使用したとすれば(鉄製のものは長篠城内に撃ち込まれたと思われる実例がある)、殺傷能力も著しく劣る。

 これでは、9時間ほどにわたって間断なく鉄砲を撃ち、無限とも思える量の鉛玉を武田軍に浴びせ続けただろう織田・徳川連合軍側の印象に残らなくても無理は無いのである。

逆にいえば、勝頼が大損害を受けながらも配下の軍勢に突撃を命じ続けたのは、ここで無理にも織田・徳川連合軍に大打撃を与えておかなければ、
結局はジリ貧になって滅亡してしまうという冷静な読みと危機感があったからだと見るべきだろう。

織田・徳川連合軍の圧倒的な物量に敗れた勝頼は戦後「鉄砲1挺につき300発分の弾薬準備」と命じているが、大敗を喫して威信低下し
経済的にも打撃を受けた武田家臣団がノルマを達成できたとも思えない。

勝頼が戦後に「300発分用意しろ」と宣っていることから、長篠合戦の織田軍も1挺あたり300発分用意していたとする。

 まず火薬だが、3000挺×300発で18億円程度、鉄砲玉は同じく1億4000万円。これは材料費のみで、製造加工費は別なので、あれこれ合わせると最低でも20億円以上がかかっていた計算となる。

 かたや武田軍は10分の1の30発分しか用意できなかったと仮定すると2億円程度と計算できるから、ここに両者の国力の違いが明確な数字となって現れてくるのだ。

 鉄砲の数だけでは見えなかった、マネー面から見た長篠合戦、一巻のお終い。

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/24989