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ナウシカの声優・島本須美「宮崎さんにお会いしてなければ…」

1978年の創刊以来、長きにわたり日本のアニメ界を牽引してきたアニメ雑誌『アニメージュ』。1982年には「スタジオジブリ」設立のきっかけとなる『風の谷のナウシカ』の漫画連載がスタート。そんな両者の歴史を振りかえる『アニメージュとジブリ展 一冊の雑誌からジブリは始まった』が、百貨店「阪急うめだ本店」(大阪市北区)にて12月9日より開催される。映画でナウシカ役を演じた声優・島本須美に、宮崎駿監督との思い出やアニメ業界の変遷について訊いた。
「私というより、クラリスやナウシカのファン」(島本)
『アニメージュ』の創刊が1978年、島本さんの声優デビューが1979年ということで、ちょうど時期が重なっていますよね。
『宇宙戦艦ヤマト』が創刊号の表紙を飾ったその翌年、声優として活動を始めてました。テレビシリーズのレギュラーとしては『ザ☆ウルトラマン』が初めての作品で、同時期に映画『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリス役をやらせていただきました。
『アニメージュ』さんは長い間ご一緒させていただいて。あちらが先輩ではありますが、同じ時代をともに生きているような気持ちでいます。
展覧会でも触れられていますが、その時期は『機動戦士ガンダム』のヒットもあり、アニメ業界にとっても重要な時期だったかと。当時の「声優」はどういう立ち位置だったのでしょうか。
私は1979年頃が第一次声優ブームだったんじゃないかと思っていて。ちょうどその頃、先輩の声優さんたちがワイドショーなどに出るようになり「声優」という職業が持ち上げられたと思います。
その当時は特に「このアニメのキャラクターをやっているこの人が好き」という、キャラクターファンが多かったなという印象です。そういう意味では、私というよりナウシカやクラリスのファンという方が多いんだろうな、と感じていました。
声優の存在が注目され始めたことで「声優が声をあてているアニメってどんなものだろう」と、アニメを見直す動きにもつながったんじゃないかな。まだ「テレビ漫画」と呼ばれていたものが徐々に「アニメ」や「アニメーション」という呼び方になり、声優だけでなくアニメ文化自体も変わっていった時代ですね。
今の時代では当たり前となっている、声優活動の原型がその時代にはできていたんですね。
当初は劇団の俳優さんが仕事のひとつとして声優をやるということが多かったと思います。それこそ、大先輩たちの頃は、生放送でアニメの収録をするなんていう時代もあったそうで。
アニメの主題歌を歌ったりユニットを組んだり・・・という今では当たり前となっている活動も、私のデビュー当時あたりから始まったんじゃないでしょうか。
「宮崎さんに王蟲の動かし方を教えてもらった」(島本)
島本さんがジブリ作品に携わっていくきっかけとなったのは『赤毛のアン』シリーズのオーディションだとか。その際に、宮崎駿監督と出会ったんでしょうか。
『アン』の頃は、直接対面していないのですが、オーディション用に録音した声を通して私の声を初めて知ってくれたそうです。
それをきっかけに宮崎監督が島本さんの声に惚れ込んだということでしょうか・・・?
そういう逸話みたいなものは私も目にしたことはあるんですが、宮崎さんに直接うかがったわけではないので、なんとも(笑)
ただ、そのときに私の声を覚えてくださったようで。『カリオストロ』を制作する際、録音監督さんを通して「クラリス役で声を録らせてほしい」と連絡がありました。そこからオーディションを経てクラリスをさせてもらうことになり・・・。そこで、初めて宮崎さんをお見かけしました。しっかりと会話をしたのは『ナウシカ』が初めてです。
その後に、『アニメージュ』の特集でアニメ制作スタジオの『トップクラフト』を訪れて、『ナウシカ』の制作現場をご覧になったんですよね。
はい、たしかアニメージュさんの企画で。まだアニメーションを制作されている最中の、収録も終了していないタイミングでした。制作中で大変だろうに、宮崎さんはやさしく応対してくださって。おそらく、オープニングの映像に関係するカットを描いていたのかな?
作業の手を止めて、「王蟲はね、こうやって動かすんだよ。これをワンショットごとにね・・・」って。「宮崎監督」と呼んだら、「ああ、監督って呼ばないでください」って。それから私は勝手に「宮崎さん」って呼ばせてもらっています。