秦郁彦
「アジア・太平洋を対象とするワシントン体制はヨーロッパを主舞台とするヴェルサイユ体制コンビで、ヴェルサイユ・ワシントン体制と呼ばれてきました。
 ヴェルサイユ・ワシントン体制が十分には機能しないものだったというのはその通りだと思います。

 ただ、日本もコミットする形で出来上がった両体制を、満州事変で最初に破ってしまったのは日本なんですね。
 国際紛争は国際連盟で処理していくということに日本も積極的に同意していたにもかかわらず、満州事変を起こしてしまった。
 しかも連盟が制裁できなかったのを見てイタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラーもあとに続きました。
 第二次世界大戦につながる戦争の口火を切ったのは、実は日本だ、という点で責任は重い。

 しかも、国家意思として、やむを得ず打破したという形ならば、弁明の余地もあるのですが、軍の出先である関東軍のクーデターに引きずられ、結果としてそうなってしまった点が寝覚めの悪いところです。
 少なくともイタリア、ドイツは国家意思の発動という体裁でヴェルサイユ体制に挑戦しましたからね。

 ところが、日本が最初にワシントン体制を破ったことについて、日本国内では意外に評価が甘い。
 満州事変はやむを得なかったとか、あれくらいのことは他の列強も暗黙のうちに認めていたはずだとか、満州事変だけでやめておけばよかった、という議論にもつながるわけです。」

保阪正康
「ワシントン会議は三ヶ月もかけて七つの条約と十二の決議を採択していますが、このなかの九カ国条約などに違反するという形で昭和史が始まったというのは事実で、このことを昭和陸軍の指導者はそれほど自覚していなかったですね。
 そのことはのちの東京裁判でも検事団から執拗に指摘されています。」

昭和史の論点 p9