スキューバプロ・サンデー - パラワンの大虐殺

パラワン大虐殺とは、第二次世界大戦中の1944年12月14日、フィリピン・パラワン州のプエルト・プリンセサ市付近で起きた事件である。日本帝国軍は150人のアメリカ人捕虜のうち139人を虐殺しました。パラワン島の施設は日本軍によってキャンプ10-Aと名付けられ、捕虜たちは使用されていないフィリピン軍の建物数棟に収容された。食糧はほとんどなく、毎日の食事は虫のついたカンボジア米と、カモテのつるを水で煮たスープ(カモテはフィリピンのサツマイモの一種)を水筒一杯分だけもらっていた。働けない囚人は、配給量が30%減らされた。

捕虜とパラワンの飛行場を担当していた日本軍の部隊は、第131飛行場大隊で、アメリカ人がイタチと呼ぶ小島長義大尉が指揮していた。吉原正中尉が守備隊を指揮し、小沢良治中尉が補給を担当していた。小沢の部隊は、1942年にフォルモサから到着し、それまでは満州にいた。また、パラワンには憲兵隊と呼ばれる憲兵と諜報の部隊があり、その残忍な戦術から、彼らの手に落ちた者は誰でも恐れられていた。
1944年9月、パラワンで捕虜になっていたアメリカ人のうち159人がマニラに戻された。日本側は、残りの150人で飛行場のサンゴ砂利を手で運んで砕き、週7日コンクリートを打つという過酷な労働をこなせると見積もっていた。伐採などの重労働のほか、トラックの修理やさまざまな整備作業も行っていた。

1944年10月19日、アメリカのコンソリデーションB-24リベレーター爆撃機1機による攻撃で、パラワンでは敵艦2隻を沈め、数機を損傷させた。10月28日にはさらに多くのリベレーターが戻ってきて、地上の敵機60機を破壊した。収容所内のアメリカ人の士気が高まる一方で、日本軍による捕虜の扱いは悪化し、配給量も減らされた。
日本側は当初、捕虜の要求を拒否していたが、アメリカ人がバラックの屋根に「アメリカ捕虜収容所」と描くことを渋々許可した。これにより、米軍の空襲から囚人たちを守ることができた。日本軍はその後、捕虜のバラックの下に物資を収納した。

https://soldiersystems.net/2021/12/12/scubapro-sunday-the-palawan-massacre/