11月26日にはいわゆるハル・ノートがアメリカ側から手交された。

11月28日には野村大使、来栖三郎特命大使とルーズベルト大統領の会談が行われたが、この席でハル・ノートが日本政府をいたく失望させたという日本側に対し、ルーズベルト大統領は「日米会談開始以来、まず日本の南部仏領インドシナ進駐により冷水を浴びせられた」とし、またハル国務長官も『暫定協定』が失敗に終わったのは、「日本が仏領インドシナに増兵することによって他国の兵力を牽制した」ことが原因の一つであると日本側の対応を非難した[61]。
12月2日にはハル国務長官が北部仏印に対する日本軍の増派が行われていると非難し、日本側の対応を改善するよう求めた[62]。
日本側はこの増派は協定による合意内であると反論したが、日本政府はこの頃すでに対米戦を決定していた。
12月8日に日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し、ここに太平洋戦争が勃発することとなる。

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