高橋さんは、そうした「経済学の貧困」に対し、コロナ禍は再考を迫っていると考える。

「私たちの社会は、もっと早く、もっと効率的にという合言葉をもとに、利益を最大化する方向へ突っ走ってきた。しかし社会には、歩きたくても歩けない人、話したくても話せない人、見たくても見られない人がいる。『プロクルステスの寝台』ではないが、私たちは生きている人間に合わせて経済理論を立てるのではなく、生きている人々を、『経済合理人』というモデルに押し込めようとしてきたのではなかったのか」
経済学は客観的に実証できる範囲に対象を限定し、抽象モデルによって操作できる統計やデータを扱う傾向を強めてきた。定量化できない「貧困」や「格差」、文化人類学が考察してきた「無償の贈与」や「相互扶助」など古くからある慣行は、先進国の経済合理人をモデルとする経済学からは、「学問外」として排除される傾向にあった。

「ジョーン・ロビンソンはかつて、技術開発は、普通の人がどれだけ我慢できるかにかかっている、と言ったことがある。パソコン起動までに3分かかることも我慢できない人が増えれば、企業はその数分の短縮のために膨大な金を使ってまで技術を開発する。しかし、そうやって便利になることが、ほんとうの幸せなのか。利益を最大化することだけを指標に競い合うのではなく、さまざまな個性、能力の人々が集まる社会で、『満足度』を最大化することが、経済学の目的なのではないか」
コロナ禍のもとで、高橋さんはそう考える機会が増えたという。

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