明治の中頃、三遊亭圓朝は、江戸っ子とはどんなものかを薩長の人間たちに示そうと『文七元結』を作ったといわれている。
本所だるま横丁の長屋に住む左官の親方・長兵衛は、腕はいいが、三度の飯より博打が大好き。
今日も細川の屋敷でスッテンテンになり帰ってくると、かみさんから娘のお久が昨日からいなくて居所が不明と告げられる。
そこへ、吉原の「佐野槌」からの遣いの者がやってきた。

じつは、娘のお久が父親の借金を見かねた末、吉原に身を沈める決心をし、長兵衛の仕事先でもある吉原の大店「佐野槌」の女将のところへ身を寄せているとのことだった。
長兵衛が急いで駆けつけ、いい娘がこんな場所に出入りするもんじゃないと諭そうとすると、逆に女将から説教を受けることになる。
改心した長兵衛は、娘のお久をかたに五十両を借り受け、一年後の大晦日までに返済するむねを約束し、吉原をあとにした。

闇の夜に吉原ばかり月夜かな
大門をそこそこに、見返り柳をあとに見て、山の宿から花川戸、左へ曲がる吾妻橋。

長兵衛親方、ここで身投げをしようとする若者に出っくわす。掛け金の五十両をお店へ持って帰る途中、男がぶつかってきてその五十両財布ごと盗られてしまったのだという。
話を聞いて、すぐさま懐の五十両を確かめる長兵衛。お店の若造は主人に申し訳が立たないので、どうしても身投げするときかない。
この見ず知らずの若造に、困りに困った長兵衛親方、自分の五十両のいきさつを話した上で、まるごと投げつけ、暮れの江戸の闇夜へ消えていってしまった。
ところが、手代の文七が店へ帰ると、碁に夢中になって置き忘れてきた五十両が戻っていた。

さァ、大変。鼈甲問屋の近江屋主人卯兵衛が、翌朝までに五十両のいきさつで話にでた「お久」と「佐野槌」の名前を頼りに長兵衛親方を探し出し、
夜っぴいて夫婦喧嘩をしている真っ最中の長屋を訪ねた。吉原からお久を身請けし、文七と一緒にさせるため、お礼に伺い、目出度し、目出度しとなる一席。

『文七元結』は、私が最も好きな人情噺と言ってよいかもしれない。
半世紀以上、落語を聴いてきて、昭和の名人六代目三遊亭圓生にはじまり、古今亭志ん朝、立川談志まで、名高座に出合えた回数が多いのも影響しているに違いない。
六代目圓生の『文七元結』は養父五代目圓生の「文七元結」を継承しているが、ト書きのような説明文をできる限り削って、台詞と所作で噺を運び、写実芸に徹した高座だった。

その六代目圓生の登場人物の台詞や場面転換の説明をさらに磨き上げ、芝居的ともいえる所作を随所に加えた『文七元結』を演じてみせたのが古今亭志ん朝である。
心地よいリズムが随所に光る噺の運びで、一瞬の淀みも一点の曇りもない話芸と所作が美しく決まった写実芸で、これぞ名人芸と呼びたい高座だった。
その極め付けが、長兵衛が文七に財布ごと五十両を投げつけて姿を消してしまう場面である。

投げつけられた中身が石ころだと思い込んだ文七が、それを姿の見えなくなった長兵衛に向けて投げ返そうと、財布を握った拳を振り上げた瞬間、
それが石ころなどではなく、ひょっとして五十両の小判だと手の感触から気づいて、視線を右上にゆっくりと上げ、その拳をじっと見据えるような眼で見つめるのである。

これはもう芝居であって、しゃべくりの舌耕芸ではない。映像時代に対応し、噺の世界に演劇的リアリティを持ち込んだ、志ん朝の「噺を見せる」独創的話芸と言ってよい。
志ん朝が噺の世界に演劇的手法によるリアリティを持ち込んだ落語家とするなら、立川談志は、心理的手法、つまり、登場人物の心の動きに忠実にしゃべり、そこから噺のリアリティを紡ぎ出そうとする落語家だった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/78c1f4398fe7ac7b8296ccc14f7afa2b5e5adb74