「批評家」って何のためにいるの?偉そうに他人の作品にケチをつけて楽しいのだろうか [564368815]
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「批評は文化、芸術、政治、学問に不可欠」 吉田秀和賞の前田さん 【茨城】優れた芸術評論を発表した人に贈られる第31回吉田秀和賞に「ナチス絵画の謎 逆襲するアカデミズムと 『大ドイツ美術展』」(みすず書房)を書いた立教大名誉教授の前田良三さんが選ばれた。今月19日に水戸芸術館で 賞の贈呈式があり、講演では「批評は文学、芸術、政治、学問に不可欠なものだ。ナチスの時代は批評というものが 圧倒的に欠けていた」と訴えた。 ナチス・ドイツのヒトラー総統は、ナチスの価値観に合うかどうかで芸術作品を評価し、シャガールやクレー、 カンディンスキーらの絵を退廃美術として抑圧した歴史がある。 1937年夏には、ナチスが否定した前衛美術をさらしものにする「退廃美術展」と、ナチスが称賛した「真正のドイツ芸術」を 一堂に集めた「大ドイツ美術展」が、ミュンヘンで開かれた。 戦後、退廃美術に関する研究は進んだが、大ドイツ美術展の作品は芸術上の価値が乏しいプロパガンダ美術として、 ひとくくりにされがちだった。 前田さんは大ドイツ美術展に出展された1枚の絵に注目。ヒトラーが好んだ画家ツィーグラーが描いた4人の裸婦群像で、 「四大元素」と名付けられている。古代ギリシャで提唱された世界を構成する四つの要素「火、風、水、土」を表し、 ナチス絵画の代表作とされる。 前田さんによると、描かれている裸体は、勝利の女神のような堂々たるものではなく、プライベートな雰囲気をまとう。 一方で、絵は教会に飾られる宗教画で用いられる3面フレームに収められ、公的なイメージも漂わせている。 「さまざまな見方を許したあいまいな作品だ」と複雑さを指摘する。 前田さんは著書の中で「それ自体は空虚で凡庸なものが、自らを絶対的な力として受け入れるよう迫ってくる」と この絵を批判的に論じた。 「四大元素」が公開された翌年の38年、ミュンヘン会談で旧チェコスロバキアの一部がドイツに割譲され、 39年に第2次世界大戦が始まった。(西崎啓太朗) https://www.asahi.com/articles/ASPCY74H0PCYUJHB001.html おもしろい批評を読むと変わるよ 安部公房「他人の顔」の文庫版に付いてる大江健三郎の解説とか短いけど凄い 作品なんてものは誰にでも勿論お前にだって編み出せるものだが批評はそうはいかない 海を見たと言ってもTVの中でだけ 今夜中に行ってこれる海はどこだろう 「批評」をレビューととるかクリティークととるかで見方は変わる そもそも作品に対する批判ってのは大事、というか鑑賞者側が持つべき権利なわけで 「ケチつけて楽しいか」って見方は創作者の傲慢でしかないんだけどね ちなみに、そもそも表現の自由とは批評の自由を意味してる >>3 語彙力や表現力は豊崎の方が上だけど、人気や味方の数ではけんごの方が上だったな。 文学批評 これはまぁわかる アニメ批評 この辺からアウトくさい 美術とか一般人が介入できないようなところでしか批評って残らないんじゃね 文芸批評はみんな読もうと思えば自分で読めちゃうからもうダメだわ >>10 押井守はアニメ批評家の方が向いてる 岡田斗司夫より的を射た批評をする アニメ批評もやろうと思えばやれるんじゃね まあ岡田斗司夫みたいな詐欺師が大手を振るってる内は無理だがな むしろアニメ批評の方がいけるかもな すべて画に描いたもんだから 技術論でやればいいんじゃね それじゃつまらないかもしれないけどさ >>1 こいつ、ファミ通のレビューくらいしか読んだことなさそう 作品の価値を作る一番重要な仕事だぞ 評価する人間がいなければ絵画は板切れだし宝石は石コロだぞ むしろなんでアニオタはあんなに批評家を敵視すんだろう KindleやPrime Videoにうじゃうじゃいる奴らでしょ?感想じゃなくて批評してる人ら 考えてみればガノタはみんな富野由悠季が他人の作品を貶すのを楽しみにしているようなところがあるよな 雑多にある表現作品をまとめ上げ、歴史や文脈を分かりやすく分類・定型付けて世の中のリテラシーを上げていく作業は必要 本屋の学術書コーナーにある芸術本の棚行けば映画やポップミュージックみたいなサブカルも学問としてきちんと歴史が編纂されてるのが分かる 批評家って価値というか歴史を作る仕事だからね 芸術というのは過去の作品を参照したり批判的に見ながら作るわけで、そういう意味では作者自身も批評家だよ 金さえ貰えば自身の主張さえ曲げるから5chで管巻いてる俺達のほうがマシだわ 誰でも手軽に作れるようになって そもそも優れた作品自体が飽和して個人が好きに選ぶなり自分で作ればいいどころか そもそも作品一つ一つへの時間も減っているのだから 定量測定してデータを示せない分野は作り手側の営業的なプロモーションやコセンプトメイキングの方が重要だよ 批評家がなんて言おうと気にしない事だ 今まで批評家の銅像が建てられた事があったかね 名誉嫌儲民 編纂として批評はその手の表の世界とは別にあるからこれまた好きな人だけでやっておけばいい アーカイブする需要もないのならその娯楽の界隈ごと衰退して消えるだけ >>19 ネガティブな意見=アンチと叩くバカ増えすぎてふたば行くのやめた 最近Qの巣窟になってて笑った 小説は好きでよく読んできた方だけど評論とかまったく興味ないわ 作者でさえほとんど興味ないんだから最後の解説くらいで充分すぎる たまに手を出してもそれが知ってる本の場合それなりに名のある奴らしいのに デタラメみたいなことが書かれているのが結構あってうんざりさせられる 嫌儲なんかで知ったかするには、批評家の著作読んどくと便利だよw 彼らは膨大な本読んでるしw まーケンモメンがあれはいいとか悪いとか面白いとかつまらんとか、あれこれ言うのも批評であるしねw とある娯楽の制作にあたって用いるツール類を発展させる方が可能性の限界を広げてるから 媒体自体がよっぽど好きならそっちに関わればいい >>36 どうした?コンプレックスでも刺激されたか? >>40 いや別に? おまえのコンプを刺激しちゃった? ショーペンハウアーも膨大な本を読んでる評価の著作は、効率的な読書する上では便利な代物であると言ったものであるねw 「芸術家になれない人間が批評家になる。兵士になれない人間が密告者になるように」 ラーメンも作ったことないやつが 偉そうに店主にアドバイスするとな 文化批評家のサイードも現代の言語芸術に残された領域は、批評という絶えず変容する活動であると述べたものであったねw 日本みたいな全体主義的な国では批評自体が嫌われてしまうんだろうな 売れている作品に時に敢然と立ち向かって意見を述べないといけないから 批評家が批評をするとき、批評家もまた批評されているのだ 批評という言葉は、英語のcriticの訳語というねw 批評の批の字は、手を反して撃つという意味だそうで、非難攻撃という意味であるが criticという言葉はもともと非難攻撃という意味はない、criticの訳語に「批評」をあてたのはまずかったのでは?といったりしたねw >>53 について述べたのは、批評家の小林秀雄であるねw >>53 ふむ?🤔 フランス語あんま知らないのにランボーの詩を訳したり、モーツァルトをあんま知らないけどモーツァルトについて批評したと言われるあの小林秀雄が言っとるんか なら信じない方がええね 批判だけじゃなく絶賛する批評もあるやん なぜ批評家の批判の方だけ抽出して取り上げるの 2つは一体のものだ なんでも全部褒めてるやつの賞賛なんかありがたいか? 自分の賛美に力を与えるためには批判も必要なのだ 全部の作品が好きなんて言うやつはただのウソつき 批評家に対する批判の定番は 「作ってないくせに」 みたいなのが多いんだけど>>44 みたいな感じに でも作ってるヤツ批評して悪く言うと 「お前の方が売れてねえのにwww」 とか言われる。実際にたまにある。 だから批評は全然作らないヤツがやるのが妥当なんだよ 批評は宣伝に属するものだ 宣伝の効果を上げるために批判も必要なの 押してもらえる作品に選ばれなかった作家の泣き言なんか聞けんよ そもそもの問題として批評と批判を言葉として使い分け出来ないガイジが一定数いる >>56 坂口安吾は文学やらせりゃ、日本で一番偉い男と小林秀雄を評したものであったねw 嫌儲というのも、儲けることを批判するわけで、これも批評の一種であるねw モメンがよくやってる品評会というのも批評であるしw つまり批評というのはおまえらが日常的にやってることであるねw 批評家というのは嫌われると、お前ら見てるとよくわかるよねw >>62 フランス文学者の篠沢秀夫は小林秀雄の翻訳読んで 内容がデタラメすぎてガッカリしたそうな >>64 まー小林本人も、自分の翻訳には水の中に水素があるがごとく誤訳があるだろうと述べたものであったねw ランボーの小林訳なんか、あれはあれでひとつの作品であるねw >>28 銅像は建たないけど国内最高学府の総長になってる 文学批評は文章という同じフィールドで勝負してるから説得力はある 映画批評とか音楽批評になると何も実践できないような奴が偉そうにしてる例ばかりになる “ケチ”ってそれあなたの主観ですよね?なんかそういうデータあるんですか? そのケチの付け方も需要があるだろうしな 自分の発言にしちゃう的な 映画にしろ音楽にしろ批評してくれる人間がいなければただの壁打ちテニス 「否定的な批評を行うことは容易である。 なぜならば、どんなものでも、じっくりとよく見れば欠点を見付けることは常に可能だからである。 もっぱら欠点に注意を向け、価値あることを無視することはしごく容易なことである。 しかし批評の主たる魅力は、批評されているものよりも批評している者の方が偉く見えることである。 批評することは極めて容易なので、それはしばしば他のいかなる方法によっても 人の興味を引くことが出来ない凡庸な輩の避難所となる」 原文 Negative criticism is easy because it is always possible to find fault with anything if one looks hard enough. It is quite easy to concentrate on the faults and ignore what is worthwhile. But the main attraction of criticism is that is at once makes the critic superior to what he is criticizing. Because criticism is so easy it is often the refuge of mediocre minds who cannot be interesting in any other way. 三千行の作品を作り給え、批評家が三行で批評してくれる。しかも勝つのはいつも向こうだ。 >>67 創作と批評は使う媒体が同じなだけでフィールドは全く同じじゃないだろう 優れた創作家が優れた批評家でもある例はしばしばあるんだからその場合のみ説得力を持てる 創作家として実績を残した人だけが批評家としてもやっていける風潮は必要だと思うわ >>66 最高学府ってランキング的なものを指す言葉じゃないぞ? >>32 小説を読んで浸って解釈して楽しんで満足って健全な人もいれば俺ならこうする!と喧伝していっちょ噛みして稼ぎたい人もいるんだろう 本当に俺ならこうする!実際に見せてやるわ!と創作に行って名をはせる人もいれば声のデカさだけで勝負する人もいる 人間は社会的生物として集団内での承認欲求を欲するように進化してきたから声のデカさでしか勝負できない個体だっているんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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