独立を回復してからの日本の政治の復古調に合わせるように、戦犯は国内で権利や名誉を徐々に回復していきました。その辺の事情を解説した毎日新聞の記事(毎日新聞7/13/05、毎日新聞4/30/06)から主なできごとを整理しておきましょう。
この記事では「戦犯の復権」とか「国内外で二重基準の政府」という見出しが使われています。
(1)1945年、GHQ(連合国軍総司令部)は神道指令を通達、国家神道が廃止され靖国神社は一宗教法人となる。
(2)1950年、法務総裁は「軍事裁判により刑に処せられた者」を国内刑法犯と同様の扱いとすると通知した。
(3)1952年、この通知は講和条約発効直後に撤回され、戦犯は選挙権などを回復する。
(4)1953年、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が改正され、拘禁中に死亡した戦犯の遺族にも遺族年金などを支給するようになった。
(5)1952年〜1955年、衆参両院の本会議で戦犯釈放・赦免を要請する決議が5度にわたり行なわれた。冷戦を背景に連合国は徐々に押し切られ、A級戦犯は1956年までに釈放され、重光葵(まもる)元外相らは閣僚も務めた。
(6)1956年、旧厚生省引揚援護局長が「なし得る限り好意的な配慮をもって、靖国神社合祀事務の推進に協力する」と各都道府県に通達。靖国神社の照会を受けた都道府県は、旧陸軍関係の情報を調査し神社側が用意した祭神名票に結果を記入、これを引揚援護局が取りまとめて神社側に送った。
援護法の対象となる戦死者のリストを祭神名票として靖国神社に送付したのは、旧厚生省引揚援護局長だったのである。A級戦犯は1966年に送付された。
(7)1959年、一宗教法人である靖国神社は名票を元にして戦犯の合祀をBC級戦犯から始めた。しかし、A級戦犯14人の合祀は長年にわたり筑波藤麿宮司が預かり実施しなかった。
(8)1966年、政府は「極東国際軍事裁判に際し、被告全員の無罪を主張した功績」によりパール判事(インド代表)に勳一等瑞宝章を授与した。
(9)1969〜1973年、自民党は5回にわたって靖国神社の国家管理を求める「靖国神社法」を提出したが世論の反発が大きくすべて廃案となった。

(10)1978年、松平永芳宮司が「国家機関の決定」と強調してA級戦犯を密かに合祀した。

公になったのは翌1979年の報道によってである。合祀された14人の東京裁判での判決は、絞首刑7名(東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、松井石根、武藤章、広田弘毅)、終身禁固刑4名(平沼麒一郎、小磯国昭、白鳥敏夫、梅津美治郎)、禁固20年(東郷茂徳)、公判中に死亡2名(松岡洋右、永野修身)である。

東京裁判では、政府の指導的立場にいたA級戦犯28人が平和に対する罪で裁かれました(毎日新聞4/30/06)。
上記以外の者に対する判決は、終身禁固刑12名(荒木貞夫、橋本欣五郎、畑俊六、星野直樹、賀屋興宣、木戸幸一、南次郎、岡敬純、大島浩、佐藤賢了、島田繁太郎、鈴木貞一)、禁固7年(重光葵)、精神障害を理由に免訴(大川周明)、などの14名です。

ちなみに、東条内閣の商工大臣をつとめた岸信介はA級戦犯容疑者として逮捕され巣鴨拘置所に収監されましたが、不起訴となり釈放されています。

安倍晋三首相の父である安倍晋太郎は岸信介の娘婿です。

岸信介とその実弟である佐藤栄作も首相を務めました。
安倍晋三首相は、祖父である岸信介が東条内閣の一員として日米開戦の詔書に署名したことについて「判断の誤りであった」と国会の答弁で認めています(日経10/06/06)