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また、昭和天皇には、発表された御製(天皇の短歌や詩作)のなかにも、靖国神社のA級戦犯合祀を憂えた歌がある。1986年8月15日に詠まれたもので、1990年に出版された御製集『おほうなばら』(読売新聞社)に採録された歌だ。

〈この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし〉

この歌については、天皇の歌の相談役をつとめていた歌人・岡野弘彦が『昭和天皇御製四季の歌』(同朋舎メディアプラン)の解説のなかで、当時、徳川からこんな説明を受けたことを紹介している。

「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです。天皇はA級戦犯が処刑された日、深く謹慎して悼みの心を表していられました。ただ、後年、その人達の魂を靖国神社に合祀せよという意見が起こってきたとき、お上はそのことに反対の考えを持っていられました。その理由は二つあって、一つは国のために戦に臨んで、戦死した人々のみ魂を鎮める神社であるのに、その性格が変るとお思いになっていること。もう一つはあの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとお考えなのです。ただ、それをあまりはっきりお歌いになっては、さしつかえがあるので、少し婉曲にしていただいたのです」

つまり、冒頭で紹介した未発表の〈靖国の名にそむき...〉という歌は、1990年に発表され、徳川が「婉曲にしていただいた」と語った御製〈この年のこの日にも...〉の元歌だった可能性が非常に高いのだ。発表された御製でも不快感は十分伝わってくるが、昭和天皇のA級戦犯合祀への怒りはもっと激しかったといえるだろう。

徳川は岩井氏による聞き書き『侍従長の遺言』でも、〈合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものに整えさせていただいた。(中略)それなのに合祀賛成派の人たちは都合のよいように曲解した〉と批判していた。つまり、徳川は昭和天皇の真意をねじ曲げるA級戦犯擁護派を牽制するために、元歌をあえて岩井氏に託した、ということなのかもしれない。