最後の将軍・徳川慶喜。じつはこの慶喜、大の豚肉好きで、「豚一殿」(豚が好きな一橋の殿様)と揶揄されるほどだった。
当時の薩摩藩では、統治していた琉球文化の影響もあって、豚肉がよく食べられていたという。そんな事情から、慶喜は薩摩藩に対して、たびたび豚肉の「献上」を要求していたのだ。
元治元年(1864年)薩摩藩の家老・小松帯刀は、慶喜から豚をねだられて、ほとほと困り果てているという胸の内を、書簡にしたためている。
「追伸を申し上げます。一ツ橋公(慶喜)より豚肉を度々望まれることがあって、私の持ち合いのものを差し上げておきましたが、1度ならず3度目まで望まれて、すべてを差し上げてしまいました。
ところが、またもやお使いを寄こされて豚肉を所望してこられました。しかし、もう私の手元にはないので、キッパリとお断り申し上げるしかありません。
それにしても、大名というのは聞き分けがなく、大変困ったものです」
当時の小松帯刀は28歳。若き家老にしつこく肉をねだる姿は、現代に残されている徳川慶喜の凜とした佇まいの写真からは想像できない人も多いだろう。
大名の聞き分けのなさに振り回された帯刀はたまったものではなかったろうが、仏教の思想などどこ吹く風で、ひたすら己の欲に忠実な慶喜が、微笑ましくもある。
徳川慶喜に負けず劣らず肉好きだったのが、慶喜の父・水戸の徳川斉昭だ。実は当時、彦根藩は牛肉の名産地だった。この牛肉を愛食していたのが、斉昭である。
彦根藩の井伊直弼が、安政の大獄で斉昭を弾圧したことは広く知られている。
マシュー・ペリーの来航で国論が二分して以来、斉昭と直弼は、はじめから相容れない関係だった。
互いの主張を頑として譲らず、ついには血を流すまでの権力闘争に発展してしまうのだ。
しかし、この両者の確執のそもそもの原因は何だったのかと探ってみると、意外な事実にたどりつく。
当時の様子を記録した『水戸藩党争始末』の中には、「老公(斉昭)と大老(直弼)の不和」と題するものがある。
そこには、「御老公は牛肉が好きで、毎年寒い時期になると彦根藩から牛肉が送られてくるのを楽しみにしていた。ところが、直弼が家督を継いでから、すっかり送って来なくなった。
その理由は、直弼が敬虔な仏教信者であったことから、領内の牛を殺すことを禁じてしまったからだ」とある。
心の奥底から楽しみにしていた牛肉が届かなくなってしまった。
そこで斉昭は、直弼に対してたびたび使いを出しては、しつこく肉をねだる(慶喜のしつこさは親譲りか……)。
しかし、直弼はそんな斉昭の願いを、頑として聞き入れない。「何と言われても絶対にお断りします!」
このときの様子を伝える書物には、繰り返し肉を送るようお願いしているのに、まったく聞き入れない直弼に対して、斉昭がたいそう不快に思ったと記されている。
「直弼の野郎……!」。斉昭の中で、何かが弾けた。
上司の吐いた言葉が部下の耳に伝わり、言葉だけが伝わっていくのは、いつの時代にもある。私怨がいつしか大義と入り乱れ、相手への恨みが膨れていく。
そして、「桜田門外の変」が起こる。このとき直弼を襲ったのは、水戸藩の浪士だった。
この歴史を動かした大事件、実は牛肉の恨み、欲しくてたまらない肉を送ってもらえないという、直弼に対する斉昭の恨み、すなわち「食い物の恨み」がそもそもの原因だったのではないか?
そう考えると、表向きの理由だけではわからない、幕末の意外な風景が見えてくる。
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