なぜ今も「邪馬台国」が見つからないのか?九州説vs畿内説 [944297578]
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卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した
畿内か九州か−。古代史最大の謎として江戸時代から続く邪馬台国(やまたいこく)の所在地論争。
「倭国乱れ、何年も攻め合った。そこで女子を共立して王とした。名は卑弥呼という」。中国の歴史書・魏志(ぎし)倭人伝は卑弥呼誕生の経緯をこう記す。2世紀末、九州から畿内にかけて大規模な戦乱があり、各地の王が卑弥呼を擁立したとされている。
しかし、「倭国乱」の記述について寺沢さんは、西日本各地の遺跡を精査し「2世紀後半〜末に大規模な戦乱の痕跡はみられない」と指摘する。弥生時代、矢じりや剣が突き刺さった人骨などが発掘されれば、戦乱の跡と推測される。北部九州を中心に弥生時代前期にはこうした人骨が多数見つかっているが、2世紀後半に西日本一帯で急増した状況はみられないという。
そーす
https://www.sankei.com/article/20220106-UNOIQWDJJJKDJA2V2MV7L5FUIE/ 群馬にちょうどその時代の謎の遺跡があったんだけど第二次大戦のどさくさで全部ぶっ壊されたからちょっと怪しいと思ってる 痕跡ぐらいありそうなもんだけど無いんだよな
あれば場所論争も終わってるわけだし わかってるけど今の天皇家を中心としたヒエラルキーが壊れるから出そうとするとことごとくつぶされてるとかだろうよ
天皇も記録がない謎の代あるしな 日本には天皇家以外にも王朝があったことになると
都合が悪くなる人たちがいるから 西暦240年の頃の歴史が文字で残ってないとはな
唯一の記録が三国志じゃどうしょうもない
つうか未開の原始人の歴史なんてどうでもいいか 中国の歴史書が間違ってんじゃないの?
ジパングだって日本じゃなくて本当は東南アジアのどっかかもって話やん 歴史書で学説の対立を見たけど九州が優勢だったような 卑弥呼は火山を鎮めるための神官だったとすれば九州しか考えられない 存在してた事は中国の文献で確定してんだろ?
まじでなんで見つからんのやろ >>12
魏志倭人伝に邪馬台国に馬はいないって書かれてるんだが
>其地無牛馬虎豹羊鵲。 男は全員入れ墨だったんだろ
文字の入ってきた奈良時代から見て500年くらい前か
長いと言えば長いけどそういう文化が根絶宇s留ものかな
日本列島の古代史じゃないからだろ
いい加減気づけよ間抜け
だいたい記述みればわかるだろw
宮崎にそれっぽい名前の土地あるのに何で調べないんだろ ミスった
×根絶宇s留ものかな
○根絶するものかな 倭=古代日本列島
と思い込むのが馬鹿ジャップ
倭の五王だって対応する天皇すら存在しないんだから、普通にわかるだろうにw 当時は史書どころか文字もなかったんだから
せいぜい何かしらの地方政権があった痕跡は見つかっても
「これが邪馬台国だ」と確定できるわけがない 蘇我氏が倭ならすべて説明がつく
飛鳥文化はそれまでのジャップの在来文化とは一切関係ないからw なんで2世紀を調べてるんだろう
倭国大乱なんて3世紀なのは明白なのにな 阿蘇山から久住高原にかけてドライブしてみな。
ここなら苦労して国を起こしてもいいなってなるから。 邪馬台国は女王国の奈良に新しく作られた中枢でヤマト政権の始まりでしょうね
狗奴国は元々近畿地方一帯にあった葦原中津国のモデルで魏志倭人伝当時版図を縮小し河内と和泉でしょう
国津神の元に留まったアメノホヒの末裔の土師氏の拠点が河内〜和泉にあることからも大阪が葦原中津国のモデルの地という説を裏付けますね
倭国大乱の前に倭国は男王の治世が約80年ありました
倭国の建国は1世紀後半、男王によって始まったと考えられますね
大国主とス【クナ】ヒコナの国作り、大国主の別名は芦原醜男
なにわの枕詞は芦が散る
そしてアイヌ語で芦原はサルになります もはや明治史観といってもいい
毒され過ぎ
天皇=神のヒエラルキーのためにいろいろ隠されていると見てる 邪馬台国を征服した王朝があらゆる記録を抹消したからだろ
個人的には宇佐界隈を見てると
卑弥呼→天照大神
壹與→市杵嶋姫
だと思ってるから九州説を推すけど
1 卑弥呼の墓は奴婢100人とともに殉葬
こんな墓は日本列島には一基たりともない
2 邪馬台国では鉄器使用(製鉄技術もあった)
砂鉄を用いたたたら製鉄ができるのは6世紀以降
3 撰者陳寿は洛陽以北へは一歩出てない(魏志倭人伝は伝聞形式で書かれている)
呉を牽制するための作り話がほとんど
邪馬台国は卑弥呼を輩出しただけの国であって別に指導者的役割にあったってわけじゃない
だからどこにあろうが関係ない
いろんな国の連合体でそれぞれの国から王が出てたのが卑弥呼の頃の古代日本 関連本を色々と読んだけど北九州説の方に説得力を感じた
個人的には特に北九州に残っている地名と魏志倭人伝に出てくる国名の一致が多い事から北九州説が信じるに足ると思える
畿内説はまず前提として畿内にあったとして議論に入るものが多い
こっちは何故畿内にあったと言えるのか?という事が知りたいわけだが、そこを完全にとばして議論に入るからダメだわ やまたい じゃなくてやまと=奈良だろって説はそんなに弱いんか?
卑弥呼の次の女王候補に台与と書いてとよってのがいただろ
なんでやまたいって読み続けるんだよ
箸なんとか古墳が卑弥呼の墓かもしれないのに宮内庁が発掘させてくれないとか言って議論が止まってるのも草
さっさと調べればいいのに このクソ狭い列島じゃ言うほど大戦争なんてできないのは後世の歴史でも明らかだしな >>29
九州派だけど
奈良の高天から見た山並みも神々しかった >>37
岡山(吉備)は大和朝廷の成り立ちには大きく関与してるけどね 概念であって実在ではないということだろ
桃太郎を本気で信じてたらアホ
色々な実在的要素を混ぜた作り話 >>13
畿内説が圧倒的に優勢だよ
九州説を唱えているのはほとんど九州の在野の研究者でそれもその研究者の住んでる場所を邪馬台国のあった場所としているからバラバラ 山形明郷
中国の学者楊守啓氏がいうには、「朝鮮側の史料『東鑑( 東国通鑑) 』では詳らかではないが、
日本の史書から判断すると、高句麗広開土王即位の年は西暦3 9 1 年であり、日本では仁徳天皇の治世時に当たる。
しかし、この間、両国には抗争の事実はみられず、又、中間の履中・允恭両天皇の時代にも、高句麗・新羅と闘争の事実はない。
又、三宅米吉氏も『高麗碑考』の中で同様のことを語っている。即ち、「倭・倭人と高麗との抗争記述も、
『日本書紀』など日本側の記述に対応すべきものがなければ、強いて附会する必要はなかろう。
碑文中に現れる倭が、大和朝廷で在ることを明証した論考は現れていないのである」との見解を述べている。
倭や邪馬台が何処であろうと、我が国の古代史に繋がることではないので、
目角を立て附会曲解をする必要ないこと、論ずるまでもない。
「倭」そのものゝ総体的な輪郭が把握できず、「邪馬台」が「大和朝廷」の前身などという固定観念で、
これら倭人に関する伝記などを捏ねくり返してみたところで、
先人の糟粕を舐め啜るのが落ちであろう。 >>39
箸墓は卑弥呼の墓にしては規模がデカすぎるので倭迹迹日百襲姫命の墓ってのが通説だからね 学者が食ってくために永遠に結論出さないとか聞いたけど >>17
こんな話を聞いたって書いてるだけやろ
書いた人も見てない なぜジャップは論理的(機械的)思考ができないのか
このスレでも池沼並のやつばっかでこれじゃ自民党が議席獲得するのも納得する >>52
気をつけないと世界史のタブーに触れて命が危ない >>39
「大和」と書いて「やまと」と読むのはかなり時代が下ってからの事だからね
邪馬台国は単純に「やまとこく」と読むと思っているけど漢字にすれば「山門」だったろうね
山門郡は北九州にあるから北九州に邪馬台国があったと思ってる アトランティスと同じで寓話として書いてただけじゃないの 金印があったせいで
どんな推測しても現状じゃただの屁理屈なんだわ
畿内は諦めろ 九州説vs畿内説は一生決着がつかない
全ては四国から目を逸らすため 邪だの馬だのは中華がイキって当てただけだしな
あいつらすぐ他民族を南蛮とか西戎とかイキるから >>33
呉というか孫権が倭国側からの魏包囲網を画策してて、それが割と大きかったのかもね
赤烏元年の鏡が山梨から出土してるし
公孫淵援護を反対押し切って可決したり
派兵失敗した諸葛直らを処断したり
孫権の東方への関心が凄い
邪馬台国は割と倭国で呉派の国と対立してる小国だったのかもね >>39
大和王朝と繋がってるなら歴史としてちゃんと残ってるだろ
消えてる時点で断絶してる 存在しないに一票
邪馬台国なんて存在しない
それですべてが説明出来る 魏志倭人伝ありきで考えてるうちは真相には辿り着けんよ 卑弥呼は単なる出先がイキっただけで、
本当の中央は大坂とかに居たんだね。 架空創作の物語だからだね。
アニメや宗教の
聖地巡礼と同じ。
金色夜叉のお宮の松と同じ。 邪馬台国は九州にあったけど、別に日本を統一した国家じゃなかった
後に日本を統一したのは畿内にあった別の国
魏の使いは九州まできてそこで帰った そら中国が断片的に記録した内容しか残ってないからや >>54
そこらの暇人が書いた文章ならともかく、
魏志なんつー最上級の歴史書・公文書に載ってるようなもん、
さすがにデタラメではないだろう。
大袈裟に書かれてたり正確性はないとしても、全くの嘘ではなく
それなりのもんが当時の日本にはあったと考えるべきだよ。 >>39臺 壹 台 を とと読むことはありえない 本居宣長のこじつけ >>33
陳寿は統一後に書いてるんだから呉を牽制する必要ないじゃん
魏の時代の史料をつかってるから牽制してる内容になってるっつうなら
陳寿自身が洛陽以北にいったことがあるかないかは信用性にほとんど関係ないってことになるじゃん >>46
日本に限らず中国周辺の国の歴史は中国の資料からよみとくしかない
同じように欧米での古代史はローマの資料頼り 畿内説は中華の史書に記載されてる邪馬台国をヤマト王権と結び付けたいだけなんだろ?
セコいよなぁ そもそも日本列島の話じゃないというのは大いに有り得るなw >>39
日本語も中国語も3世紀の発音はよくわかってない
へたに台をトと読ませるとそう読むはっきりした根拠があると誤解されてしまうからやめた方がいいと思う
呉音か漢音で読むのが穏当だろうけどそうするとヤマダイかヤバタイになんだよね
ヤマタイって読みかたは中途半端にヤマトに義理立てしてる感じ そもそも争いが絶えない時に女王でまとまるか?
何かフィクションの話にしか思えない🤔 邪馬台国はヤマト国と同じ。タイだけ訓読みするな。
都が九州から近畿に東遷した。そういうのが神話になってる 邪馬臺國は中国のカラ出張報告の創作
その証拠に出張経路がデタラメ過ぎて到着地が見つからない >>85
あり得ないも何も日本書紀でも「台」は普通に「と」の万葉仮名として使われてるぞ 平日の昼間から湧く。
そして何度も同じスレを立てる。
これが九州説の人。 そもそも邪馬台国の記述がいい加減でめっちゃ適当やし 古事記の九州は筑紫国、豊国、肥国、熊曾国の4つ
筑紫国=伊都国
豊国=台与(豊玉姫)の一族の治める国
肥国=卑弥呼(天照大御神)の一族の治める国=邪馬台国
熊曾国=狗奴国
邪馬台国と狗奴国の争い=日向(葦原中国)をめぐる争い
これなら九州説と天孫降臨から神武東征までの統合性が取れる タイが付くのは九州ッタイ!
魏「どこから来た?」
倭「邪馬ッタイ!!」
つまり正式名称は邪馬国な 2世紀頃の西日本にはそれでは何があったのか?無人の地ではなかったのだろうw >>33
日立金属トップページ たたらの話
https://web.archive.org/web/20200218004345/https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
鉄の使用の始まり
稲作と鉄の伝来
現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3〜4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。
弥生時代前期(紀元前2〜3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
https://web.archive.org/web/20190403184858im_/http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/photo/p20101_1.jpg
石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
朝鮮半島との交流
弥生時代中期(紀元前1世紀〜紀元1世紀)になると青銅器が国産されるようになり、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。
弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及します。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。後漢の班固(ad32〜92)の撰になる『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」との記事がありますが、当時倭人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もやっていたことが分かります。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、銅製品など)が多数出土しています。この中に有樋式鉄戈(てっか)がありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。
https://web.archive.org/web/20190403135839im_/http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/photo/p20101_2.jpg
福岡県春日市の門田遺跡から出土した有樋式鉄戈(てっか)
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館) つまり2世紀の西日本を支配していたのはナガスネヒコと。 魏書には吉備とか出雲とか同時代の大国出てきてないから九州の雑魚国だろ
纏向はデカ過ぎだし 実際は小さなせせこましい集落だから見つかっていてもそれとわからないんだよ 天孫降臨神話でも、いくつも天下りの子孫が治めてる国はあったわけで、最終的には大和朝廷に一本化されるが
それまでは複数の王朝があったと見るほうがよいのであろう。 >>113
漢文だろうと日本語の固有名詞は万葉仮名で表現するしかないだろ……日本書紀読んだ事ないのか? 邪馬台国民は俺だけか
滅びゆく定めなのか、さみしい… まともな学者では畿内説で決着が着いてるんだが
東大の利権のせいで九州ゴリ押しで全然研究が進んでいないらしい
ミニ自民党みたいな奴がいるんだろうな 阿蘇山大噴火で埋まったのでは
そんで九州から近畿方面に流れた 元々九州にあったけど何かがあって淡路島あたりに移動したのでは 想像で場所を比定しても意味ない
喋るだけ無駄
決定的な証拠を出せば 本当はもう勝負ついてるんだけど観光ビジネスの側面から確定しちゃいけないことになっている 生産性のカケラもなく、他人から奪うことしか頭になかった穢れ多くて
賤しい種族の子孫だと主張したがるのが北九州族と畿内族なんだよね〜 「日本国は倭国の別種」
「小国日本が大国倭国を征服した」
これだけで別の国だとわかる そもそも邪馬台国が本当にあったかどうかも確かじゃないからなゴッドハンドのお陰でめちゃくちゃだよ 九州から船出さないと中国行けないんだから九州でいいよもう >>49
そう、むしろその倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼なんじゃねって思ってたし
何ならその姫の三代くらい下の皇女の豊鍬入姫命が台与ならちょうど年齢の辻褄も合うじゃんと思ってたんだよ
しかし九州にも豊玉姫とかそれっぽい姫がいるらしいしわからんわ
どっち派もそれっぽい記述とか根拠持ってるけど証拠までいってないから譲らない限り決着はないのな すっっごい昔から中国朝鮮とやり取りしてるし遺跡もそれなりに残ってるのに文字やら絵やら全く残ってないのってやっぱ、日本を支配した大和朝廷がそれまでの記録全部焼き払ったからなのかな 同時期に天皇の祖先は誰で何をしてたか、中国の文献には書いてある? >>135
豊鍬入姫命は崇神さんによって朝廷を追い出された天照大神をお祀りするために腐心した人だから、天照大神=卑弥呼ならあながち関係が無いとも言い切れないよね
オレは個人滴には>32のように考えてるけど 魏志倭人伝の通りに進むとどこにもたどり着かないんだからどうしようもない
途中から書くの飽きちゃってるし >>139
天皇の祖先w
旧唐書には「倭と日本は別種」と書いてある 司馬家が見栄で適当な位置にしたのとジャップが歴史まとめてないのが悪い >>137
そもそも石碑に文字を刻んで記録を残すということをやりだしたのは、偉大なる聖徳太子になってからで、それまではほとんど口伝で歴史を伝えていたわけであるねw >>139
魏志倭人伝に「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」って記述があるんだけど
邪馬台国を北九州だとすれば海を渡って東にあった倭人の国というのが後の大和政権なんじゃないのかね 邪馬台国時代には列島にいくつもの国があって、その国ごとに歴史が言い伝えられてきたが
偉大なる聖徳太子の時代にそれを整理して文字起こししたのがはじめで、そのあと天武天皇が記紀を編纂したわけであるねw >>117台,臺=と なんて読ませるような箇所はどう見ても1つも無い >>1
倭人伝をそのまま解釈し
「発掘された出土物を考慮しない」
この文書重視の姿勢で
当時の中華がいうところの邪馬台国とはどこにあったのか「だけ」で
判断するなら
とっくに答えは出ているし
それはとっても簡潔
しかし出土物による推定が時代と共に変化するため
それを無理やり文献に当てはめ
これがそうじゃないかとの論争が起き続けているだけ 結局大陸の奴らが九州出雲舞鶴とかに流れ着いたり、移動したりしながらそれぞれ土着
そこから畿内にも九州にも出雲にも別々に国があって交流もあって戦もあったというだけでは? >>93
俺の考えでは蘇我氏は女系なので、もっと昔にもそういう家系があっていいと考えている。
そしてアイドルが女であるのは、現代人でも理解出来るはず。 卑弥呼が治めた九州の小国と天皇が治めた近畿の大和の国
別物なんだから解明されるわけがない >>33
殉死わ普通に在るし
鉄器も再加工品は紀元前後からやってたよ >>148
興台産靈、此云許語等武須[田比]
興は中古音でh+中舌のイ+ngだからこれがコゴとすれば台がト 邪馬台国九州説の本家本元は本居宣長とされるが、宣長は大和朝廷を騙るものが卑弥呼と称して
魏の使者にあったと言っているわけで、つまり本家邪馬台国を名乗る国はひとつではなかったと考えられるねw 倭人伝をそのまま解釈すると
重要なのは2点
倭人伝で出てくる地名でその発音から現在も間違いなく
その地点が判明している列島の地域は
対馬、壱岐、糸島、博多まで
邪馬台国の北にこの糸島=伊都国があると
はっきり記述してあるため
邪馬台国とは糸島の南にあった
それも伊都国が警護しやすい近い位置にあったといえる
たったこれだけの話
これが倭人伝では奴国つまりは博多から先の記述が混乱する書き方となっているため
これをもって倭人伝では正確な位置が書かれていないと
正確に書かれている博多までの経路まで「わかってないかのように嘯き」
遺跡出土物重視で邪馬台国の位置を文書無視で推定してきた
これは卑弥呼を記紀の神功皇后に当てはめ
神功皇后の実在性を高めるためであったり
そうしないと皇統の連続性が古墳時代以前にはなかったことになってしまうなど
天皇崇拝にとって都合の悪い真実が発生してしまうから
特に戦前戦中においてはおかしなことになっていて
その歪みが今現在も続いているからだとしてよいよ >>146
この文あるからオレも九州だと思ってるわ というわけで>>1
これがすべてです>>159
ここが全ての基本で
「邪馬台国はどこにあるのか問題」とは
邪馬台国という名称を認識しその場所を的確に表現した中華の古文書を
都合よく無視して
その時代に発掘される出土物の性質を無理やりあてはめ
記紀にとって都合のよい解釈をする戦前戦中の歪みが
そのまま続いているってだけ まあさ
邪馬台国という認識は
あくまでも当時の中華が認識した存在なんだ
だからもしかしたらそれは当時の日本列島の一部地域での話である可能性も
そのまんまあるのさ
しかし、これですら天皇崇拝の馬鹿にとっては都合が悪いわけ
それって弥生時代にはヤマト王権とは全く別の支配勢力が
列島のどこかにあったってことになりかねない、
これは邪馬台国はヤマト王権なんだとしないといけないとして
邪馬台国を近畿にもってきたわけ 明治で記紀に基づいて色々弄ったので誤った歴史認識が残ったままなんですね
延喜式に皇御孫之命は八衢彦八衢姫クナトという名だと書かれています
クナトはサルタヒコの父、サルタヒコの母は出雲の姫神の幸神ですね 入れ墨の風習
シャーマンのババアが酋長ってところからみて縄文人の集落だろ
弥生人にジェノサイドされたんだよ ってことで
文書そのままだと
もちろん倭人伝で最も重要なのはこの一文となる
> 自女王国以北 特置一大率検察 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺史
女王国より北には、特に一大率を置き、諸国を監察させている。
諸国は一大率を畏れ憚っている。(一大率は)常に伊都国に
治所をおき、国の中で中国の刺史のようにふるまっている。
>>1
最初から
ここだけ見ときゃいい話でしかないんだ
とっても単純でしょ 小さい頃、大和と邪馬台国って発音似てると思った記憶あるんだけど
畿内説だった場合は偶然ではなかったということ?
それとも古代では発音が違ってて、現代から見て似てるのは偶然なんだろうか 見つかったら試合終了しちゃうしロマンも消えるから見つかっちゃダメ見つけちゃダメ まー当時の列島はまだまだ完全統一には程遠かったわけで、邪馬台国の支配地域も列島全てにはとても及ばず、諸国に対して比較的大きかったとおそらくその程度であろうねw >>167
畿内を征服したか
ヤマトが大国とか特別な国を指す呼称か
奈良県の国がパクったか >>167
江戸時代までは邪馬壹国をヤマト国と呼んでた 天皇制支持者のアホが畿内説言うてるだけやろ 根拠0 では具体的に>>166の
> 自女王国以北 特置一大率検察 諸国畏憚之
> 常治伊都国 於国中有如刺史
コレが示す邪馬台国ってどこなの?との答えはこう
伊都国=糸島市
邪馬台国は糸島市の南にあり
伊都国は邪馬台国の軍事的役割を持っていたんだから
それは邪馬台国を防衛出来て卑弥呼の命ですぐに出兵できる位置
糸島の位置からしてここは
まず壱岐対馬ルートの先端防衛ラインなので
半島からの侵攻に備えていたとしてよい
ではこの糸島で直接的に守れる範囲はどこかといえば
西側と南側は山間部なので守る必要はないから
東に抜けるルートを守っていたとなる
そしてその先にある平野の奥まった場所
つまり糸島に兵を置き最も安全となる豊かな土地とは
太宰府市あたりから鳥栖市朝倉市あたりまでとなるのさ
だから邪馬台国はこの辺 そもそも畿内説ガイジは記紀をガン無視してるのはなんなんだろうね
記紀に神武東征書かれてる事理解出来てないのかな?
まさか記紀を読めないとか? ちなみにこれ、畿内と九州どっちも邪馬台国って可能性は無いんか?
福岡から近畿にまで及ぶ大国の可能性
平安時代でも菅原道真とか晩年は太宰府に送られとるし、そこにも政治機構があったっちゅう事やろ >>179
文書から離れたら
「日本中のどこでもアリ」だよ
文書から離れて遺跡を重視すればするほど
どこでもありになる >>159
「間違いなく」と言えるのは末盧國まででね?
伊都國を糸島に無理やり当てはめてしまうところから
すべての迷走が始まっているようにしか見えないんだが
「東南陸行五百里」って思いっきりどきっぱりと書いてあるのに
松浦から東南に伸びる道があってそこを500里ほど行けばちょうど佐賀平野に出られるのに
松浦から糸島に行きたいなら陸行より水行のほうが楽だろうに
なんで「東南」を「あれは別の方角だから」っていきなり読み替えるのよ >>177
邪馬台国は卑弥呼の出身国なだけで女王国の中では辺境だよ
ちなみに女王国の首都は伊都国な
全部魏志倭人伝に書かれてる
むしろ軍事の中心は邪馬台国だろう
ヨーロッパで言う辺境伯みたいなもん >>173
奈良のほうがパクった説に1票
魏志倭人伝にかかれてる「邪馬台国と争ってた国」が、邪馬台国を滅ぼす
↓
親魏倭王国を滅ぼしたとあっては、さすがに報復で滅ぼされるかもとビビる
↓
九州から奈良に逃げる(神武東征)
↓
それだけでは不安なので、なんとかして
「他国が滅ぼしたのではなく、あくまで権力争いでしかなかった」
という体にするために「ヤマト」を名乗る
↓
都市や遺跡、古墳まででっち上げて作り、簒奪でも侵略でもなく
「実は私たちは親魏倭王国の後継ですよ、卑弥呼の墓もあるし、ここが都ですよ」
ということにし続ける
という流れ >>182
伊都国が糸島ではないなんて聞いたことがないし
伊都国と奴国まではそのまんま距離と方角で書かれているんで 魏志倭人伝って中国の東方に住んでいる諸民族について書いてるとこの一部で他の記述も真偽あやしいんだろ
どんだけ振り回されるんだよ 卑弥呼系の王国と天皇の系譜が全く違うとなったら困る人らが居るんだろ 大陸と半島に近いからという一点において
九州派だわ >>182
畿内ガイジって当時の里も知らなければ当時の日本が4倍年暦だった事も知らないよね >>178
東征とは関東東北を征服したことだという解釈らしい🥺 >>178
「卑弥呼(親魏倭王)って、日本書紀でいうと誰ですか?」
「倭国大乱からの女王擁立で収まるとか、男王立ててまた乱れるとか、また幼い女王立てて収まるって話はどこですか?」
これに答えられないもんな。 >>182
あ、もしかして五百里を当時の中国の尺度で捉えてなかったりするの? 確定すると邪馬台国研究学者の半分が要らなくなるのではないか >>192
高天ヶ原=宮崎をガン無視するんかそいつらw ジャップ考古学は皇室の尊厳ありきだからな
学問じゃないよ そもそもヤマト王朝と邪馬台国結び付かないだろ
台をトというような珍説は邪馬台国界隈でしか出てこない 空白の2世紀だか3世紀だかに朝鮮から攻められてやられた説はマジなんやろか?
で天皇家はどうたらと 魏志倭人伝にとって記紀の話はどうでもいい
だって記紀は倭人伝よりも400年前後後に書かれたもので
しかも中華ではなく日本列島で書かれた全く関係のないものでしかないから無視してよい 記紀には神武東征以前にも機内には国があって、神武同様、天から授かった神器を支配の証とする一族がいたとあるからねえw
つまり邪馬台国は神武東征以前から畿内に存在していたのであろうw トゥームレイダーの映画で卑弥呼扱ってたけど無茶苦茶で日本人すら出てこずなんか笑った >>187
末盧國 → 伊都國 東南陸行五百里 (現実には北東なのでいきなり読み替えないといけない)
伊都國 → 奴國 東南百里 (現実には東なのでやっぱり読み替えないといけない)
つじつまあわせにしては無理やりすぎる
近畿説レベルのむちゃくちゃやんと
これが「定説」になっている理由がいまだにわからない
とはいえこの2つを否定している人はごくごく少数派であるのは認める 「東南」って書いてあるならまず「東南」にいけよ
すべてはそれからだ
>>194
当時の中国の尺度で計算したら「其北岸狗邪韓國七千餘里」「方可四百餘里」「方可三百里」が
完全に当てはまらないのでな だから神武東征がいつの話かはわからんが、神武東征以前にも畿内には相当大きな勢力がいたことは確かであろうw
そう考えれば、考古学的知見とも辻褄合うねw >>199
多分、その最初の頃か
その後に確定したのが天皇の血筋だよ
古墳文化が前方後円墳で確定していく時期とダブるので
ここで日本列島全域が一つの支配体制で固まっていったとしてよい
だから中華のいう卑弥呼とはその天皇の血筋が確定しヤマト王権が誕生する変化に巻き込まれて
滅ぼされたとするのが自然で
そこでやっと記紀が出てきて
それをもしも描いている記紀の文言があるとしたら
卑弥呼邪馬台国とは「ヤマト王権に土蜘蛛とされた勢力の一つ」となる >>209
富士山麓や関東ですら王国群があったんだからもっと肥沃な畿内にないわけがないと思う >>205
あー
君「松浦市」で末盧國の位置をみてるでしょ?
松浦郡でみてみ
そしたらわかるよ 畿内派の学者とも九州派の学者とも畿内の解説ボランティアの人とも喋ったけど
相手方の説を人格批判レベルでけなすから面白かった
それで飯食ってんだから当たり前なのかもしれんけど 記録を残してかなかったからですし地中海沿岸とか長江沿岸の世界史観が流行るのも当然です >>179
畿内説とは元々そういう説
邪馬台国は畿内を中心として九州までを支配していたというのが畿内説の主張
畿内説だとよく東海地方を狗奴国に比定するんどけど無理があるなあというのが正直な感想 まああれだ
糸島が伊都国ではないなんてのは聞いたことがないので
そこを違うとする一点突破は
はっきり言ってどうでもいいかな >>146
俺もそう考える
というかそうとしか読めないよね >>213
元々は東大閥と京大閥の争いみたいなもんだからね
そこに市民が巻き込まれているというw 土人国ジャップ
たかだか1800年前程度の自分の歴史すらよくわからないw 伊都国が筑紫の範囲なら糸島は伊都国の一部の名残で本拠は筑後川辺りに比定してもおかしくない
そうすれば末露国の東南でも問題ない >>221
これはもうホントそうで
地理的条件によって文明の伝播が最後の最後となり
もちろん文字の伝播も遅れに遅れた地域
これが日本列島に栄えた人たちの基本的性質なんで
ここをしっかりと頭に叩き込まないと
考古学ではすべてを見誤るね >>221
大昔から捏造、改竄しまくってたからな
正確な書物は国内にない 卑弥呼 神功皇后説とか単にわからんなっただけだろ
歴史書編纂のノウハウがないんだよ
中国歴史書みたらあれこれ書いてるから当てはめてみただけ
というか異説沢山並べてるから
いうほど書記は粉飾してないとおもう 万葉集の東歌に出てくる古代の東国方言は平安時代に京都方言に飲まれてほぼ消滅した
現代の関東弁や東北弁と言われているものは実は古代東国方言の末裔ではなく一度西日本方言で上書きされた後の二代目の日本語の方言であった
この古代の東国方言は日本語の側派と言ってもよい程度の独自の言語性をもっていた
この現象は全国的に起きていたようで隼人や熊襲などの言葉も平安時代には消えてしまっている
基層言語としての縄文アイヌ語の痕跡は二度もしくはそれ以上の言語の上書きによってほぼ消えてしまった
その証拠として同じ東北地方でも平安時代後期以降に倭人の支配下に入った奥六郡以北の地域ではアイヌ語の痕跡が今でも地名に多く残っている
このように平安時代に側派の日本語の多くが消滅した
恐らく琉球民族の言語は消滅した日本語の側派の一つが起源であろう
東国語派と同じく南九州語派というべきものがあったに相違ない
なぜならば南九州には隼人という言葉の通じない人たちがいたと歴史に記されているが残された彼らの単語は日本語で解釈可能なため日本語の側派の一言語とみて良いからだ
結論だが日琉語は韓半島を起源として弥生文化と共に日本列島にもたらされた
韓半島の歴史でいう無文土器文化人こそが倭人や琉球民族のルーツとなる
ネトウヨの多くは弥生文化の中国江南紀元説や縄文文明起源説というトンデモな主張を行なっている
これは彼らクズども心中にある韓国や北の人たちや永住権をもつ多くの在日市民に対する差別感情が元になっている
このように歴史認識というものは情緒によってまたある時は政治によって歪められる
これが日本の教科書は極右に塗り替えようとする歴史修正主義者の正体である そもそも魏志倭人伝ってどれだけ信用できるんだ?
邪馬台国の記述だけ間違いだってこともあるんじゃないのか? >>179
平安時代を出すまでもなく、対馬の金田城は天智の御代の築城だし、それ以前にも仲哀あたりは北九州に遠征したりしてるからね
少なくとも3世紀初めくらいには畿内勢力の北九州への影響力はあったと思うよ
ただそれが邪馬台国畿内〜九州説にはならないと思うけど 弥生文化は韓半島起源だからな
もうだいぶ前から考古学的に弥生文化は韓半島南部の無文土器文化の亜種だというが判明している
日本最古の弥生遺跡である板付遺跡の発掘調査から支配階級は韓半島南部が起源の松菊里型住居に住んでいて
被支配階級が縄文型住居に住んでいたと判明している
弥生文化人は韓半島からの移住者で縄文人を征服しながら九州から関西に広がっていく
そしてそこで一時停滞したあと弥生文化は一気に東北まで拡大する
ネトウヨは縄文文化などとあほヌカすがジャップは韓半島起源の弥生人で縄文人をジェノサイドした側だ
言語学的にも弥生語より古い日本語が弥生文化以前の韓半島に存在していたことが確実視されている
だからwikipediaにもPeninsular Japonicで記事が作られている
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Peninsular_Japonic
低学歴低脳底辺のネトウヨは日本語版もあるから言語切り替えて読んでみろ
考古学的にも言語学的にもジャップの起源は韓半島なんだよな
縄文人はプレアイヌというべき人たちでジャップの先祖は縄文人をジェノサイドした側の末裔だから
ネトウヨのいう縄文文明とかお笑いだよな
ジャップの神話は韓半島系の神話で縄文文化の要素はゼロ
何故ならジャップの先祖は縄文アイヌを虐殺するか奴隷としてジェノサイドしたから
日本書紀や古事記に原住民の土蜘蛛を悉く殺したと誇らしげに書いてあるぞ
更に土蜘蛛は手足の長い狩猟採集民で言葉が通じないと書いてある
土蜘蛛ってのは縄文系のアイヌだろうよ
天ころの先祖が原住民を葛で作った罠に嵌めて火を放って焼き殺したとかそれで葛城という地名が出来たとかてんこ盛りだわ >>225
倭の五王とかタリシホコなんかも記紀には書いてないからなあ やまたいこくって読むからいかん
やまとこくって読めばいいだけ 伊都国の本拠が筑後川河口付近でそこから放射説を取れば他の国も辻褄が合う
有明海沿岸に沿って水行二十日で投馬国=薩摩
水行十日陸行一月なら邪馬台国は球磨川流域の人吉からあさぎり辺り、もしくはえびの辺り >>227
あるよ
複数のレポートベースに編纂者が
書いてて解釈ミスもあれば
レポート自体による伝言ゲームもあるし >>218
糸島から弥生時代の硯工房も見つかったしな 魏志倭人伝を書いた奴が自分の著書を面白おかしくするために邪馬台国という存在を捏造したんじゃねーの? 邪馬台国=魏志倭人伝に書かれてた国
だからね
そりゃ確定出来るわけがない とりあえずなんか発掘できてからだろ
教科書にも載せる必要あんのかなこの卑弥呼ってやつ 戦後天皇制にとって継体以前の王朝の正統性はぶっちゃけどうでもよいと思われるのでそれは理由ではないな 当時の中国の官僚にとってみれば離島の土人のことなんか興味ないのでいい加減に書いた なにかの工事で掘り返した時にたまたまヒットとかしない限り
そんな昔の遺構とかわからんよな だいぶ前から考古学的に弥生文化は朝鮮半島の「無文土器文化」の亜種だということが判明している
日本最古の弥生遺跡である板付遺跡の発掘調査から
支配階級は松菊里型住居(半島起源)に住んでいて、被支配階級が縄文型住居に住んでいたのが判っている
弥生人は縄文人を征服しながら九州から関西に広がっていき、そこで一時停滞したあと一気に東北まで拡大する
ネトウヨは縄文文明などとあほヌカすが、ジャップは縄文人をジェノサイドした側だ
言語学的にも古日本語が半島に存在していたことが確実視されていて、Peninsular Japonicで記事が作られている
日本語版もあるから読んでみろ
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Peninsular_Japonic
考古学的にも言語学的にもジャップの起源は朝鮮半島なんだよ
縄文人は「プレアイヌ」というべき人たちでジャップは縄文人をジェノサイドした側だからネトウヨのいう縄文文明とかお笑いよな
ジャップ神話は扶余系神話で縄文文化の要素はゼロ。記紀に原住民の土蜘蛛を悉く殺したと誇らしげに書いてあるぞ
土蜘蛛は狩猟採集民で言葉が通じないと書いてある
天ころが葛で作った罠に原住民を嵌めて焼き殺したとか、それで「葛城」という地名になったとかジェノサイドの自白がてんこ盛りだ
この国の教科書では日本民族は太古の昔から列島に住んでいてとか大嘘書いてるからな。歴史を歪曲してるのはジャップの方だ
縄文人が弥生人になりクニが統一されて天ころが生まれて日本国になるなどというお伽話が普通に教科書になっている
そんな訳ねーだろ。ジャップは弥生人が縄文人を悉く殺戮や奴隷化した末に若干の混血で産まれた民族
九州から南に行ったのが琉球人になる
蝦夷は本州アイヌに違いなく、その存在は倭人によるジェノサイドが弥生時代から平安時代まで続いたことを意味している
今の東北人は征服された蝦夷の末裔などではなく後から入植した倭人の侵略者の末裔
本州アイヌの民族浄化が終わった頃から倭人は北海道アイヌの民族浄化に入りその完了形が日帝の北海道内地化だ
ジャップそのものが半島起源なんだがネトウヨの寝言が糞笑える 九州で出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が曹操の墓からも発見された時点で九州なのは確定してね
曹操は「魏王」として埋葬されてるから
王の副葬品レベルの鏡を下賜された国が日本に存在したわけで
それ邪馬台国以外ありえないやん >>193
まぁ、きっと恐らく「日巫女」なんだろうけどね
アマテラス系の女王かな 糸島の平原遺跡で大量の鏡が見つかってることからも
重要なクニがあったことがうかがえる ヤマト王権が畿内から出てきたのは
まあ確からしいので中国人の書いた謎の国が地方政権なのかどうかによるよな 「光は朝鮮半島から」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳
A 吉野ヶ里遺跡
一八八四年、東京大学本郷キャンパス付近の弥生という場所で土器が発見された。
縄文土器とは全く異なるものであった。朝鮮半島の無紋土器と似た無紋の土器であった。
その後、こうした種類の土器が日本各地で出土した。
おおよそ紀元後三世紀までの遺跡から出てきたために、この時期を弥生時代と呼ぶのである。
二三〇〇年前、ついに日本列島に文明の光が朝鮮半島から照らされました。
稲作と青銅器文化が朝鮮半島から入ってきたのです。
弥生時代の遺跡からは、慶尚道の弁韓・辰韓時代のものと同じ細形銅剣、青銅鈴、無紋土器が出土しています。
朝鮮半島の三国時代のものと全く同じ半月型包丁が出土しています。鎌もでています。また、牧畜がなされました。
農業を始めると共同作業が必要となり、そのため氏族が集まり、自然に村が生まれて初歩的な社会を構成するようになります。
剰余農産物という富が創出されることで階級が生まれ、略奪と戦争が起きることで氏族が連合して部族国家に発展していくのは、人類史の普遍的な足跡そのものです。
それを文明の段階的発展過程といいますが、そのすべてが朝鮮半島の渡来人がもたらした稲作と青銅器文化から始まりました。
日本が文明の恵みを受けて弥生時代を開いていったことを証言する場所が、まさに吉野ヶ里遺跡です。 まあしかし怪しい巫女が国を治めていたと言うのが実在したと言う証拠は欲しいとこだわな 日本最古級の弥生遺跡とされる菜畑遺跡や板付遺跡で発掘された松菊里型土器
弥生文化人と縄文文化人が共存していた最初期の弥生遺跡だが、この発掘は日本文化の起源を暗示するものであった
支配階級は弥生文化人で半島起源の松菊里型住居に住み、被支配階級の縄文人は従来型の竪穴式住居に住んでいた
松菊里遺跡とは古の大百済王国の文化中心地である首都プヨ(扶餘)郊外にある無文土器時代の遺跡である
ここまで書けばもう最後まで説明する必要も無かろう
弥生文化とは無文土器文化人が稲作技術を持って土着のアイヌつまり縄文人を征服して産まれたものであった
日本語の天つまりアマという言葉の起源は満洲にある
満洲から半島に移住した兀良哈の類が半島で稲作文化を学び日本列島へと移住したのだろう
日本神話には征服される側の人間を描いて、手長や足長や八束脛など手足を特徴的に表現している
これは征服されジェノサイドされた人間がアイノイドであったという何よりの証拠であろう 日本列島の向きも位置も今と違うんだから
現代の地図眺めてわかるわけないだろアホ(´・ω・`) ジョン・ホイットマンは、日本語族を朝鮮半島ムムン文化を経由した水稲栽培の広まりと関連付けた。
彼はさらに、朝鮮語族は北方の遼寧地方から遼寧式銅剣文化とともに到来したと提唱した。
「北東アジア言語生態学、韓国・日本における稲作農業の到来(2011)」
Whitman, J. Northeast Asian Linguistic Ecology and the Advent of Rice Agriculture in Korea and Japan. (2011).
https://doi.org/10.1007/s12284-011-9080-0 ほぼ関西で決まってるんじゃねーの
九州のやつがうるせーから決定してないみたいな雰囲気ではあるけど その頃ワイ出雲は何をしとったんや?
何か色々と残っとるで 日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表
11/13(土) 15:00
日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。
日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語、ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。
研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。
その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島や朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。
研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。
このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a0b55fa1e4c553c7c8e2dbd41a86ff667dcd7039 メモ魔の中国人が最初だけ書いてあと放ったらかしなのが悪い
責任持って最後まで全部書いとけよ アメリカって500年ぐらいしかさかのぼれないけど
資料はすげぇ残ってるんでしょ
ジャップそのへんが怪しいんだよなぁ >>217
>>228
ワイの想定やとむしろ九州から東征して畿内に至って支配しとったんとちゃうん?と考えとるんやけどな
魏志倭人伝の記述者もやたらと東の方へ行きよるし まあヤマト王権がどうのこうのという話からは分離して
純粋に邪馬台国なるくにはどこにあったのか(そもそもあったのか)
という話に絞るべきだな
結論ありきで話する学者も多い >>248
「巫女」という概念が出来上がったのが卑弥呼の時代よりずっと後だからヒミコ→日・巫女はあってもその逆はないと思われる
卑弥呼が天照なのは否定しないけど 中国人に聞けよ
俺らをワクワクさせた責任をとらせろ 町おこしで対立とかしてねぇだろな
科学ってそういう事じゃねぇだろ、っていう むしろ日本人の心のふるさとを教えてくれよ
どうせ大陸の沿岸部から移住したんだろ >>6
九州あたりだと遺跡はみなかったことにして工事してたりして >>266
せやろか?
お祈りする女の事を昔から日本では「ミコ」って呼んでたんやないかなと思うとるんやけど
太陽の事も「ヒ」と呼んでて組み合わせて「ヒミコ様や〜!」って
ほんなら中国人が漢字で当て字したろって書かれたんが卑弥呼って字になっただけなんちゃう? >>217
最近見つかった沼津の高尾山古墳は卑弥呼子説もあるよな
ヤマトタケルの東征は草薙から焼津に追われたわけだから、このあたりに古代スルガ王朝の一つ二つあってもおかしくないとはずっと言われてる >>267
ほんそれ
あいつら文革で石碑散々ぶっ壊してもまだ未だに新しい石碑が草原のど真ん中から
無限に湧いて出てくる国だからガチで調べてくれたらジャップ国はココ!って石碑や古文書もあるような気がする
つまり父さんが悪い監督不行き届き >>264
それがちょっと複雑で
・神功、畿内から九州(邪馬台国)を制圧
・神功、畿内から切り捨てられる
・神功、応神(武内宿禰の子)を擁して畿内に殴り込み、制圧
・応神を「神武」として東征譚を作成
こんな感じを妄想してるw >>269
>むしろ日本人の心のふるさとを教えてくれよ
>どうせ大陸の沿岸部から移住したんだろ
だいぶ前から考古学的に弥生文化は朝鮮半島の「無文土器文化」の亜種だということが判明している
考古学的にも言語学的にもジャップの起源は朝鮮半島なんだよ 衰退したころに津波で流されてみんな場所忘れた可能性 >>234
俺がむかーし習った頃は壱与(いよ)だったが
最近調べたら台与(とよ)になってた
これは同一人物で中国の資料により
壹與(壱与)と臺與(台与)の記述ブレがあるかららしい
壱与で調べると台与に飛ばされるから最近はこっちが主流なんかな >>212
念のために検索してしらべてみた
これが東南ってどういう地図をお持ちなのでしょうか 弥生人が縄文人をジェノサイドなんてしてないだろ
そもそも弥生人と縄文人はエンカウントすらしてない
なにせ弥生期に海を渡って渡来してきたころには縄文人なんてほとんどいなかったのだからな
そして分子人類学者の斎藤成也も縄文人と弥生人が交雑しだしたのは古墳期になってからだと言っている
しかし、これも縄文人と姉妹型古代人(父系ヤップ遺伝子)が古墳期に渡来した結果という解釈も成り立つ >>33
墓外に殉葬なら分解されて残らない
鉄器の輸入は紀元前からされてる
張政が行ってる こいつを送った王頎は帯方郡超えて半島への道を拓いてる
誤魔化し3点セットかな >>250
平原40枚三雲南小路50枚以上井原ヤリ溝20枚以上と多いな 「イデオロギーが絡んでる」と言ってる人間ほどイデオロギーに目がくらんでる
というのも、邪馬台国を「畿内にしたい」保守もいれば朝貢してたことをなしにしたいから「畿内にしたくない」保守もいる
左も似たようなもん 最近も日本語の起源は中国東北部!って説をドイツのマックス・プランク研究所が唱えてたが
原日本語の列島への到来は3千年前とされてるそうで、原日本語の到来とともに大王家の始祖も日本に来たならば
天皇家の歴史は三千年ということになり、皇紀2600年もこえる歴史を持つという事になるが、それはいくら何でも無いのではないだろうかw https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520
「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘した
中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、
大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財
「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、
邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
この話を黙殺して桃の種が物的証拠だなんだ言ってる考古学者見ると暗澹たる気持ちになる やはり大王家の列島支配のプロセスは、古墳時代を通じて進行していったと考えるのが常識的見解であろうw
統一による支配に対しては無論抵抗もあったわけで、支配の拡大も時間をかけて緩慢に行われたわけであろうねw そもそもなんで志賀島で金印が偶然見つかったのか謎
あれ本物なのかよ? >>191
それ気になるから一次資料だしてくんね? >>225
粉飾塗れ,これわ確定
旧唐書に嘘吐き過ぎのヤベェ奴等呼ばわりされてるし >>296
アレわ漢代の他の金印と組成一致してるから本物 あの世で「まさか俺の嘘松が現世で混乱を呼んでいるとはwww >>301
夏王朝とか中国もギリシャもエジプトもそういうの多いからw >>81
使者が中国に来たのは確定なんだろうけどね
そこから先の情報確度どーなんだろ?とは思う >>303
夏王朝は発掘されて史実だと確認されたし
ヘロドトスの歴史も基本的に事実に基づいてたと確認されてるけど >>305
伝聞だから仕方ない
陸続きで朝貢の続いてた朝鮮情勢はともかく、わざわざ海を渡って調査するのもしんどいです >>285
古代DVDプレーヤーに三角縁神獣鏡をセットすると… >>305
張政って役人が20年近く邪馬台国に滞在していたのだから国の事情はかなり詳細にわかっているはず >>274
神功皇后や仲哀天皇周りは魏史を挙げて卑弥呼=皇后を示唆してたりしてるし記紀を編纂した際の創作の可能性が残る
天智天皇や金田城は7世紀頃の話
そこから少なくとも3世紀始めに〜話に繋げるのはちと無理ないか? 「日本語は、母音を主体に音声認識をする、世界でも珍しい言語である」
「アジア各国の言語においては、すべて、子音を主体に音声認識をしている」
「『言語を聴く、脳の方式』という視点でいえば、世界は、大きく、この二つに分類される」
「日本語と同じ仕組みをもつ言語で、現在確認されているのはポリネシア語族(ハワイ語もこの仲間)だけである。したがって、ハワイ語やポリネシア語なら幼少期から日本語と混雑させても大丈夫なのだ」
黒川伊保子『日本語はなぜ美しいのか』集英社新書 より >>20
>>165
有明海沿岸では江戸時代になってもまだ入れ墨の風習が残っていたとどこかで見たことある >>297
>南方系だろうねマオリ族みたいな
同意。脳科学的にはハワイ語やポリネシア語と同じ。アジア語とは根本が違う
文系学者による日本語の起源研究は、鳥の羽と昆虫の羽を同じとして同じ先祖みたいなことしている可能性
古代になればなるほど文字が後退し、聴覚だけの世界になる。聴覚と脳の仕組みでいうと>>313になる >>311
安価追ってくれ
道真の時代に太宰府云々と言うから「平安よりも前の7世紀には既に対馬に城を築く程度には九州に影響力あったし、そもそも仲哀ー神功の頃には北九州を橋頭堡として九州制圧に乗り出してた」と言ったんだ
その九州制圧の経緯が>274みたいな流れじゃないのかなという妄想よ >>61
魏志倭人伝に邪馬台国に至る過程の中で邪馬台国の直前の国から偉い遠いんだって書き方になってるだろ?
北九州だと近すぎなんだよ当時のテクノロジーとして包囲は間違ったとしても肌感覚で近いか遠いかはわかるだろ
北九州エリアで船で7日かかるとこないだろ 卑弥呼の墓は平原で決まりだから邪馬台国も見つかったも同然だな 對海國(対馬下島)が方400里、一大國が方300里って書いてある以上、
邪馬壹國関連で出てくる100里は5-7km程度(当時主流で使われていた里程とは関係ない)
帶方郡から女王国までの総里程が萬二千餘里で
帶方郡から不彌國までが10700里である以上不彌國から1300里程度のところに邪馬壹國がある
末盧國(現在の唐津)周辺の地図を見れば
北東へ行けば糸島、東に行けば佐賀県のよくわからない山の中、南東に行けば佐賀平野がある
「東南陸行五百里」って書いてあるんだから南東に唐津線沿いに30kmほど歩けば多久市に到着する
ここら辺にあったのがおそらく伊都國
そこから東南へ百里行った小城市にあったのが奴國
んで更に東に百里に行ったイオンモール佐賀大和あたりに不彌國
そっから1300里(80km程度)のところにあったのが邪馬壹國
水行二十日+水行十日陸行一月とかいうのは「1300里(80km程度)移動するのにそれだけかかった」
というだけのことなのであんまり考慮に入れる必要は実はない おおもとの魏の歴史記録(そういうのを元に三国志だの魏略だのが書かれた)
ではもっと簡潔な話だけどいろいろ混ざり合って魏志倭人伝のような形になった
みたいな論文があったな
そもそも北九州の国々ばかりだから女王がおさめる国もおそらく北九州だろう
それとは別に後世ヤマト政権と同一視される邪馬台国が奈良にあったという話 ウヨ的には畿内説のほうは都合が悪いだろ
偉大なる日本に中国の属国だった時期があったと確定するから >>322
実際ウヨの多いプラスなんかで邪馬台国ネタのスレたつと
九州説だらけだからな >>310
わかってないじゃん…
どういうことだよ 朝鮮は貢ぎ物する僕かつ自治国として認識してたからそれはないです
朝鮮よりさらに東の蛮族て扱いじゃね >>322
ウヨは畿内説と「魏志はデタラメ」のハイブリッドやろ >>303
おまえいくらなんでも夏王朝をその例に出すとかセンスなさすぎやろ 出てくる地名が九州ばかりなのに何で邪馬台国だけ畿内なんだよ この前、板付と菜畑を見るために九州行ってきたわ。その際に地図を眺めて思ったけど、ほぼ比定されてる各クニの広さと戸数ってだいたい合ってるよね。
邪馬台国には興味ないんでただの印象論だけど、土地の広さ的に奴国2万を超える場所って九州内ではきつくね? >>208
そこはもう単純に「東南」という方角が間違えてるのでは? >>313
トンガ人は東日本震災のときめちゃ支援してくれたんだよな… >>322
邪馬台国スレはだいたい
「九州説は天皇が魏に従属した歴史をなかったことにしたいネトウヨの妄言だ!」
「近畿説は古代においても天皇が広大な権力を持っていたことにしたいネトウヨの寝言だ!」
というレッテルの貼り合いという地獄絵図になるのがな…… >>332
そうやって書いてあることを好き勝手無視するから決着がつかないんだ 皇室が陵墓発掘調査を許可しないから
発掘して学術的に歴史を考証されたされたらまずい、と自分から言ってるようなもん >>316
安価先228のつもりだったが規制なのか数時間おきにしか投稿できなくて訂正できなかったスマン
228へのレスのつもりで3世紀から影響力あった説明を頼む 魏史(三国志)が倭国を重要視している背景を考えると邪馬台国が17,000里と遠方の理由が見えてくる。
三国時代に魏呉蜀で争っており不安定だった情勢もあるが、それ以上に魏内部における「魏を建国した曹操の一族」と「後に軍事クーデターにより実権を握り禅譲により魏から晋を建国した司馬懿の一族」の勢力争いに注目すべきである。
三国志が編纂されたのは晋建国後の260年以降であり、司馬一族が王位を簒奪したのでなく正当に禅譲されたと主張したいという思惑があった。
魏により「親魏〇王」の称号を受けた国は2つあり以下のようになっている。
229年 曹真 西方 大月氏国 16,370里 親魏大月氏王 10万戸
238年 司馬懿 東方 倭国 17,000里 親魏倭王 7万戸
曹真は西方諸国からの朝貢をうけており一番遠い大月氏国(クシャーナ朝)は首都から洛陽まで16,370里という遠方から来ている超大国であり親魏大月氏王の称号を贈っている(後漢書)。
一方で司馬懿は東方征伐での功績があり、呉と通じていた遼東・楽浪郡帯方郡の公孫淵を討ち東方諸国への道を開いた。
この翌年239年に卑弥呼の朝貢が訪れたのは偶然ではなく司馬懿による要請があったと思われ、
「大月氏国にも負けない規模の大国(7万戸)が大月氏国以上の遠方(17,000里)から訪れた。それは司馬懿による功績である」とする目的があり、後に三国志を編纂する時にも司馬の功績と皇帝としての正当性を表す必要があったのだろう。
〇TIPS
・三国志筆者の陳寿は皇帝曹髦殺害の経緯を隠匿し禅譲の正当化を図るなど晋のために筆を折っているとされる。
・後漢書など他の史書では東夷・北狄・西戎・南蛮の四夷それぞれの伝があるが三国志には東夷伝しか存在しない
西側(大月氏国)の功績は後漢書により確認できるが三国志では抹消されている
・魏志を読むと朝鮮半島北東部の濊については距離についての記述が一切なく、南部の韓(馬韓・辰韓・弁辰)は地域全体の大きさの記述や国名はあるが国々の方角や距離など詳細な部分は書かれておらず曖昧にされている。
また不弥国から邪馬台国までの距離も明記されず水行二十日・水行十日陸行一月と日数換算で首都までの距離を曖昧にした上で、まとめて「帯方郡から首都邪馬台国まで12,000里(∴洛陽から17,000里)」と首都までの距離を提示している。 >>326
残念ながら魏志は後世の日本人に向けて書かれたものではないからね…
編纂したちんじゅ 途中で送ってしまった
>>326
残念ながら魏志は後世の日本人に向けて書かれたものではないからね…
編纂した陳寿が当時の儒者の価値観で重要だと思った事しか書かれていないが
張政は詳細に邪馬台国の事を把握していたと思われる 天皇とかそのまま居着いた古代中国の大使館員の末裔でしか無い 実は奈良で確定しているけど九州説を唱えている人がいて、あたかも意見が別れてるように見せかけているだけ >>335
字義通りに解釈すると太平洋まで行っちゃうし。 >>337
景行が九州巡幸したのは書紀にも記されていることなんだけど、その経路を具に調べてみると妙なところが幾つかあって、その「妙なこと」を説明するのに「景行の時代には九州の一部は既に中央の支配下にあった」とするとしっくりするという説(著者は忘れたが確か『失われた神話』という本)
そしてその子の仲哀は九州遠征中に亡くなってその廟が香椎宮なんだけど、さすがに大王の墓を敵地のど真ん中には作らんだろという推論からの妄想だよ 邪馬台国の頃にも街道ってあったんだよね?
この頃の交易ってすげえロマンだな 邪馬台国ヤマタイ国って呼ぶのがおかしいヤマト国
卑弥呼の娘が台与(とよ)と呼ぶのにな
朝鮮から渡ってきた酋長に滅ぼされたんだろ
勝者の歴史書である日本書紀にも古事記にも卑弥呼の事は一切出てこない 邪馬台国ヤマタイ国って呼ぶのがおかしいヤマト国
卑弥呼の娘が台与(とよ)と呼ぶのにな
朝鮮から渡ってきた酋長に滅ぼされたんだろ
勝者の歴史書である日本書紀にも古事記にも卑弥呼の事は一切出てこない >>326
張政は倭国の国々を詳細に記録して資料に残したようで、それを陳寿も重要だと考えたらしく魏志倭人伝にも多くの国名が載っている
その国名の多くが北九州の現在の地名と関係がありそうなので驚く
この動画はウヨ系のチャンネルらしくてあまり好きではないけど国名と現在の地名の一致を多く指摘している
30:50あたりから見てみてくれ
https://youtu.be/hMDQ5qjoKuI?t=1850 >>346
これに限らずエジプトでもギリシャでもローマでもあらゆることが今とほとんど変わらないのがすごいといつも思う
それまでの変化に比べてそれ以後の変化があまりにも小さい >>345
景行天皇の九州巡幸の場所は肥前風土記に載ってるような後付けぽい場所も含め大体行って回ってるけど具体的にどこが妙な所?
香椎宮も記紀と同時期の8世紀の創建だし
現状君の説明って具体性に欠けててよく分からんな >>338
せめて呉関係の歴史書がもう少しあればなー >>353
本のタイトル間違ってたw
『盗まれた神話』だった
詳しく知りたきゃ、その本を読んでくれ
香椎宮は仲哀死後に廟として存在してたってことだよ
その後、神社として整備されたのが8世紀頃 >>355
具体性皆無で8世紀の話しかしてないし話にならんな >>356
そう思うなら絡んでくれなくて結構
自分の知ってることしか認めないヤツと古代の話しても面白くないからね >>346
壱岐がある程度栄えるくらい紀元前から交易してるし現代人が思うよりは発達してたんだろうな 糸島あたりの遺跡から出てきたガラス細工が地中海原産で匈奴の墓から出土した物と一致したと先日ニュースになってた
昔の人はすげーな >>1
当時の日本に統一王朝がなかったことが判明したら日本会議みたいな右翼が発狂するから 九州説は学説と言えるほどのまとまりはない
単なるアンチ畿内説の寄せ集め
それも主戦場は学会ではなくて、一般向け書籍という有様 銅鏡の出土が後漢末から魏の時代にかけては畿内に集中していることから
当時畿内に一大勢力があったのは間違いない
そして、その影響は東北地方まで及んでいた
一方で当時明らかに九州は影響力を低下させている
また、魏志倭人伝に記された戸数と考古学的な人口推計を比較すると
奴国から邪馬台国までの地域に当時の日本の総人口に匹敵するほどの人が住んでいた事になる
つまり、魏志倭人伝に記された範囲はほぼ日本全域と考えなければ辻褄が合わない
間違っても九州北部のみの話ではない >>362
九州説がそもそも「天皇家が中国に朝貢するはずない」と「皇紀2600年!!」っていうファンタジーと
中国の歴史書の辻褄を合わせるために生まれたイデオロギー説だからね >>322
サヨって毎回こんな妄想を書いているよね
バカというか狂ってると言うか
知識もネタもないからそう書くしか参加できないんだろうけど
そして同じようなバカが賛同のレスをしまくると >>367
いや、歴史的事実として、日本右翼の源流である江戸時代の国学者たちが邪馬台国九州説を唱えだしたんだよ
卑弥呼なんぞは九州の蛮族の酋長に過ぎないという論調で 4世紀以前で50m以上の前方後円墳を見ていくと大体4世紀中〜後期が殆どで3世紀の物は福岡唐津に僅かにあるだけとなっている
景行天皇の巡幸ルートは豊前から九州に入り時計回りに福岡の北岸地帯を避け日田宇佐を経由し九州を出て行く(肥前風土記では多久経由で唐津に行ってるがあるのは4-6世紀の古墳)
被ってる所もあるが景行天皇と仲哀天皇の伝承地が概ね断絶してるのは記紀編纂時に九州に残っていた伝承を福岡北岸は仲哀天皇、他は景行天皇という人物を作って振り分けたってところかな?
景行天皇の巡幸地に残る前方後円墳が4-6世紀のものであるから孫の代の仲哀天皇は更にその後の話と考えられるので
仲哀天皇の遠征を「3世紀初めくらいに影響力があった」理由として使うのは無理があると言わざるを得ない
https://i.imgur.com/mPNDknR.jpg 江戸時代→ウヨが九州説
現代→スピ系や反国家神道系の教派神道が九州説 >>370
3世紀中ごろまでのまともな古墳群なんて奈良しかないわな 「下関か門司の辺り。理由は当時の日本にはロクな航海技術がなかったと思われるため」
という岡田英弘説が一番しっくりくる 中国の影響下にあって歴史書を残そうとする人物が現れなかったのは残念だな >>373
外海ならまだしも瀬戸内なんて丸木舟でもいかだでも問題なく航海できるだろ >>375
弥生人のレベルでも船で対馬海峡や日本海を行き来できてるんだから、
瀬戸内を航海できる技術が無いとかどうしてそんな発想になるんだろうな
文系の限界みたいなのを感じざるを得ない 九州から畿内に伝わったなら山陽道か山陰道に立派な建物がないとおかしいだろ
出雲ならまだしもいきなり畿内に飛ぶとかワープ航法でもあったのかよ 大和の読みがヤマトなのが変でしょ
きっと飛鳥以外に邪馬台国があって朝貢デビューしちゃってるから
後に統一王朝の奈良時代にいざ外交デビューしようとしたらヤマト=倭と認識されてるもんだから当時の人は考えた
まずは倭は見下しててイラつく和としようそうしよう。仲良くするのが国是だしね
そんでもって大日本帝国とか大韓民国のノリで大ってつけて大和として舐められないようにしよう。虚勢だね
それで名が通ってるヤマトと読むようにしよう。襲名してますよっと
とそういう流れで出来たんだと思う >>373
デタラメ
三角縁神獣鏡を初めとして漢代や魏代の舶来品が東北地方でも出土してるぐらい広い流通網があった >>313
ハロハロとか同じ言葉を2回繰り返すのが特徴とか聞いたことある >>294
一次資料は記紀や魏志倭人伝その他の資料だけど、見たこと無いの?w
>>366
意味不明すぎる
九州説は記紀と魏志倭人伝の記述を正しいとする立場だからな
女王国(一般に言う邪馬台国)は後の天皇の大和政権とは別物だぞ
だってそう書いてるし >>315
鈴虫の鳴き声を日本人は音楽の様にとらえ外国人はただの騒音にしか聞こえないとか >>384
記紀も魏史も明らかに又聞きの又聞きレベルで一次資料とは程遠いだろ
まあ、一次資料の意味すら知らないんだろうけど
記紀に邪馬台国のことなんて1文も記載されてないし、魏志倭人伝の記述に従えば邪馬台国は九州にはない
お前は適当しか言えないのか? >>379
中継地点の今の岡山あたりに古代吉備王国というものが存在した >>381
そこで日本でしか出土してない三角縁神獣鏡持ち出してもしょうがなくね
曹操の墓の発掘責任者が精査した結果
曹操の墓の副葬品の鏡と「酷似してる」「同型の可能性が極めて高い」
っていう金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は九州から出てるんだよなあ
死没時の曹操は漢王朝下の「魏王」
その副葬品が日本に存在するということは
漢から禅譲を受けた魏王朝下の「倭王」に
同じものが下賜されたと考えるのが自然じゃね
さあ魏が認めた倭王とは誰のことだろう >>366
魏志倭人伝からはどうやっても機内につかないから
九州は一回二回間違えば着く >>388
魏志倭人伝に鉄鏡のことなんて何も触れられていないし、卑弥呼が朝貢したのは曹操死後2〜30年後
後漢の鉄鏡が見つかったのは興味深いことだが邪馬台国論争には何の関係もない スピ系が九州説を支持してるね
やはり教派神道の起源となった国学者が九州説だったからかね
今の教派神道は反国家神道のあまり左翼的な人も多いからな 倭人は黥面文身するんだぞ
畿内にそんな部族は大和王朝できてからしかない >>390
その責任者いわく
当時の中国で鉄鏡も銅鏡と書かれて何も不自然なことはないとのこと
当時の中国のガチ貴人の副葬品が「倭」なんかに存在した事実が論争に何も関係ないって苦しすぎんよー 九州にモデルが在って、海の向こうから来る仮想外敵が九州のままじゃヤベェってなって大和に完全版のミラー国家作ったんだと思うな
だからどっちも東京、ネオトーキョーみたいに邪馬台国には違いない >>391
「邪馬台」と「ヤマト」と読むなんて珍説も江戸時代の学者からだが 今の九州北部?の伊都国と奴国の場所を掘ったら何かヒントが出てきそうじゃね
あと鹿児島とか宮崎も怪しいんだよな >>381
三角縁神獣鏡は国内産じゃんwww
>>386
もしや、ガイジ君は一次資料がなんなのかすら理解出来ないガイジなのかな? 両方に女王がいた(かたっぽが卑弥呼でもうかたっぽは従姉妹)みたいな丸く収める説があるみたいでワロタ >>392
畿内に刺青文化が無かったという根拠が分からないけどそれ以前に
九州人だろうが関西人だろうが、下手すりゃ琉球人や台湾人すら
当時の中国人からすれば倭人だぞ
>>393
意味不明すぎる
卑弥呼が下賜された魏代の銅鏡と
後漢代に使われた鉄鏡を同じものと考えるとか
屁理屈にすらなっていない、論外 >>401
刺青文化があったのは海人族とか宗像族
このあたりが畿内に出てきたのは卑弥呼の時代から100年は後 >>398
三角縁神獣鏡は魏の技術と判明してる
複製品は多かったろうけどな
一次資料は同時代に作られた資料ないし、当事者により作成された資料
記紀も魏志倭人伝もどちらも当てはまらない どうせ公文書破棄したんやろ?w
金印もゴッドハンドに決まってるし 卑弥呼=火巫女
火の巫女=阿蘇山の噴火を鎮める巫女
したがって邪馬台国は阿蘇山周辺にある >>402
だから、その話に根拠はないし
当時の中国人からしたらどっちも倭人なんだから
倭国の記載としては九州だけの風俗を書こうが他地域の風俗を書こうがおかしくないわけで
「邪馬台国」の風俗として書かれていない以上、邪馬台国の所在地のヒントにはならない、 >>404
金印は経緯は確かに胡散臭いんだけど、模倣品にしては高度過ぎ
江戸時代の技術であそこまで高度な偽造ができるとは思えない 方言という観点では北九州大分は瀬戸内海との共通点が多いが
筑前(福岡市のあたり)や筑後(久留米市のあたり)は瀬戸内海側との共通点が少ない
これは古代でも似た傾向だと推測する
従って古代に九州で吉備と繋がりがあったとしてもそれは東九州側だったのではないだろうか >>406
伊都国で流通管理してその報告を邪馬台国の女王まで上げてるんだから文字は使ってたろ
残ってないだけで >>403
三角縁神獣鏡は国産鏡だと判明してるぞwww
ていうかガチで一次資料がなんなのか分かってないのな
そんなレベルで歴史の話をするのはやめた方が良いぞw >>407
魏志倭人伝で最初に着いた対馬〜九州北部の土地風俗を所在地のヒントにならないとかじゃあ何がヒントになるんだよw古墳か?w まあ北九州だろ
ヤマト朝廷に関わりあったら記紀に絶対書くもん >>415
邪馬台国については戸数と女王周辺以外、魏志倭人伝にはほとんど何の記述もない
邪馬台国の風俗なんて一切何の記述もない
もちろん、陳寿は倭国にも邪馬台国にも行ってない
いったい、どういう理屈で魏志倭人伝の倭国の記述が邪馬台国の風俗になるんだ?
カムチャッカ半島の旅行記からモスクワの様子を探るぐらいのムチャしてる >>416
記紀を書いた時代に3世紀のことなんて分かるわけないだろ
そもそも倭の五王すら誰だか分からない
奈良時代には飛鳥時代のことすらマトモに分からなくて、唐に不審がられてる
邪馬台国がどこにあろうがその時代に大和朝廷は影も形も無いから無関係だよ まぁ博多弁は面白いことに語尾に〜タイと〜トヨを使う
台与(トヨ)は卑弥呼の宗女だそうな >>420
三角縁神獣鏡は魏の技術で作られており、当時の一次資料は何処にも存在しないというのが事実 日本じゃなく朝鮮だったりしたら最悪だな
ロマンの欠片もない >>424
持統天皇の時代に禁書令を出してたことはハッキリしてるね >>419
畿内に一大勢力あったでしょ
あと日本書紀に魏志は出てくるから知ってた可能性が高い >>422
ガチで一次資料がなんなのか分かってなくてウケるw
三角縁神獣鏡自体が一次資料なのになwww
単に魏から作り方教えてもらった国産鏡なのになwww
>>424
昔から焚書した事を自信満々に正史に書く位だからなw なぜ見つからないかと言えば日本に文字がなかったから
永遠に見つからない いや見つかってるけど
そこじゃ都合が悪いだけ
偽造捏造何でもありのジャップよ 魏志倭人伝に糸島の南にあるって書いてんのにまだウダウダ言ってんのか
それよりあの時代に種子島(侏儒国)まで捕捉してたの凄いよな わざわざ魏志倭人伝の卑弥呼登場年代にピッタリ合わせて
神功皇后なんて女傑キャラをクリエイトしちゃうぐらいだから
記紀編纂当時の朝廷にとっても、何らか存在そのものを無かったことには出来ない事情はあったのだろうな どっちも嘘くささ半端ないな
龍馬も尾ひれどころじゃなかったのに >>435
ピッタリ合ってるなんて思ってるのは後世のガイジだけだがな 日本列島を逆転させればいい
タツノオトシゴみたいに北海道を南にすれば畿内説で決まり 永遠のミステリーでいいわ
何故だか決定的な証拠が見つかる予感が全くない 畿内説ができた経緯調べたら大和っていう地名が畿内にしかないと思ってたからってアホかよ。
吉野ヶ里の隣に大和っていう地名があるってわかって江戸時代に論争にもならずに既に終わってるじゃないか。 100ある国が大乱で30まで減って、それらが連合した国と狗奴国が戦争中の朝貢
卑弥呼が死んで狗奴国との戦争が激化
連合分裂の危機になるが台与が女王となり一応は分裂を避けた所で派遣された張政に貢ぎ物与えて帰国させる
そこで大きな朝貢は途絶えて250年くらいの暗黒時代へ
狗奴国に滅ぼされてるだろこれ 遺跡発見から200年ということで西日本新聞地方面で短期連載が始まってる
https://i.imgur.com/gryToOF.png >>137
脈々と現代に通じる歴史と伝統を感じるな 地面掘ったら「ここが邪馬台国です」なんて書かれた竹簡が発掘されるわけもなく 胡散臭い歴史
それでいて2600年続いてるとか本気で言ってるバカがいる 魏志倭人伝を読むと、倭国には村もあり統治者もおり農業や漁業もやっていて
家族制度もあり服も着ていて交易もやってると、社会生活の様子が書かれているねw
だが文字を使っていたという記録はないな。魏からの詔書は伝えられていたとあるから
卑弥呼の時代でも文字は理解できたということだね。いろいろなものを朝貢していたそうだが
文書を魏に送ったという記録はついぞないねw >>39
上代日本語のto(toと違う音、後に融合)が、3世紀にはtaiだったってだけじゃないの 弥生時代は世界的に極寒冷時代となっている
気候は海流の影響も大きいから一概に言えないが海の無い奈良県は北緯34度あたり
壱岐と同じ緯度だが平均気温は奈良の方が低いから弥生時代に極寒だっただろう
事実、鉄器など弥生時代の文明はほとんど出てこない
魏志東夷伝は邪馬台国は暖かくて豊かだったとされている、つまり畿内とかは
気象学からあり得ないとされている
魏志東夷伝によると
北緯41度 高句麓 良田がなく耕作に努めても口腹を充すに足らず
北緯38度 減 年々の豊凶を予報することを試みた.村落は相侵犯して不穏.
北緯36度 馬韓 人民土着。稲を作り養蚕を知り絹布を産する
北緯34度 対馬 良田なく海産物で自活.船で南北に米を買いあるく
北緯34度 壱岐 良田が少くて食料が不足し,船で南北に市耀していると記述している
位置不明 邪馬台 稲・紆・麻を植え養蚕を行う.繊維を紡ぎ織機を使っ
て絆の布,繰布,絹布を産する,国々に交易の布が立つ,飲酒が普及し大人は4・5婦,下戸も2・3婦を持
つものがある.80才〜90才の高齢者を見る.下戸は大人に恭敬の態度をとる. ぶっちゃけ日本史で教えないほうが良いと思う
大化の改新からで十分だろ しかし下戸も二、三婦もてるって、邪馬台国は弱者男性にとってはパラダイスみたいな
ところだったんだねw 現代日本は下戸は一婦も持てない。そこは邪馬台国以下であるねw >>455
魏志倭人伝で「金印が日本に伝わった」との表記あり!→福岡県で見つかる
「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
どんどん「魏志倭人伝って日本にあった物を伝えているんだなぁ」って感想しか無いが その風俗は淫らではない。婦人は淫せず、やきもちを焼かず、盗みかすめず、訴え事は少ない。
魏志倭人伝に描かれている倭国の人間関係というのは非常に良好であるねw
それでいて下戸も二、三婦もてるというんだからねえw 理想的社会であるねw >>432
記述通りだと鹿児島より南になるけど、そんな所に7万戸クラスの古代都市の痕跡が一切ないからね >>459
司馬懿の晋建国正当化のために巨大で遠方の国に作り替えられてるとは思う >>461
下戸でも二、三婦もてるということは極端に男性が少なかったと思われる
戦争が多かったせいなのか、病気等で男子の早死が多かったか、あるいは下戸より下の奴隷扱いの男が多かったのか >>465
そんなに極端に男性が少なかったのなら、邪馬台国の時代には女の骨しかでてこないと
考古学者がいいそうであるが、特にそういう話も聞いたことはないねw >>459
前漢の師升のものと推定される前漢期の金印と
晋に返却されて日本に絶対に存在しない邪馬台国の金印を一緒くたに語るんだ?
10種の魏晋鏡とかいうあからさまなチェリーピッキングとか話にもならんし 明智光秀はなぜ織田信長を暗殺したかみたいなもんで
分かるのは中国の三国末期に邪馬台国の女王卑弥呼を盟主とする倭人の国があったっていうことまでで
それ以上の場所の特定とかはできないだろ 実はそんなものなくてただの創作だから
当時人は住んでおらず宇宙から人がやってきた際に
創作本をみんなで描いた 最近読んだ新書面白かったな
魏志倭人伝は魏と敵対してる呉の背後にある倭人の国を傘下に収めた功績を称えたものだから倭国の描写も盛られまくってるという 伝聞だから適当なこと書かれたんだろ
ジパングがジャパンのことなら邪馬台国だってヤマトのことだろ
あと不思議なのはみんな刺青をしてたって記述
日本にそんなに刺青文化なんてあったん?
不衛生だし残ってないし >>338に書いてるけど司馬懿の公孫子討伐により遠方から大国が朝貢しにこれるようになった、というストーリーにしたいから盛ってるんだよね
クシャーナ朝と同レベルにまで盛られてる上に魏史では西のクシャーナ朝はなかったことにされてる >>470
当時の日本はかなり遅れた国だったので弥生時代の出土品を調べてみれば場所は特定できるよ
魏志倭人伝には、
”蚕に桑を与え、絹糸を紡いだりしている。細い麻布や硬めの絹織物や真綿を作る。”
とあってなるほど絹がすでに作られていた地域なのねってなる
弥生時代は寒冷な時代で稲も壱岐、対馬で育ちにくいとされている
そんな時代に絹を作る地域は暖かくて豊かだった地域に限定される
しかも福岡県では弥生時代前期の絹が出土している
客観的と物証的には九州のどこかかあるいは比較的暖かい四国の一部地域くらいまでが可能性ある
ただ奈良とかは出土品も古墳時代のものばかりだし鉄器とか出ないし弥生時代の寒冷な
時代に稲が育ったとも思えないし絹もかなり弥生時代の後の時代のものしか出土しないし
ありとあらゆる可能性が低すぎる 大月氏国(クシャーナ朝)は蜀の背後に位置する
倭国は呉の背後に位置する(実際は背後じゃないけど呉の背後になるように魏志倭人伝で南へ移動)
魏がわざわざ親魏○王を与えたこの二国は魏の遠交近攻策の一環として優遇されている
倭国が異様に大国なのもそんな大国を傘下に収めた司馬仲達の功績の称賛と呉への牽制の意味がある 古墳の中探したらなんか見つかるんじゃねーの
いつか公開しろよ >>477
ところが近畿説の場合には
「邪馬台国傘下の国は九州北部から近畿(以東?)含めて広大なものであり
魏からの使者は九州北部まで行っただけで邪馬台国まで行っていないから
九州北部の風俗しか書かれていないのは当然だ」
って言いはるんだよ
ごくごく控えめに言うけど
頭おかしい 入れ墨というのは古代文明においては比較的よく見られた風習であって
古代日本にも入れ墨の文化があったと想定することは特に不合理ではないねw
古代日本にはもろもろの装身具で身を飾る風俗もあったが、それらは仏教の
伝来とともに消滅したとされるねw 縄文時代の土偶なんかみても、入れ墨いれてたりするよねw 魏にとって大事なのは呉の背後を就ける大国だということ
だから出来るだけ南にある設定が望ましい
だから魏志倭人伝では倭国は異様に南によっている
魏志倭人伝で倭国が異様に南側の風習だらけなのもそのせい
南にあって呉を挟撃できる大国を傘下に収めたぞとアピールしている >>452
九州からは弥生時代の地層から80〜90歳の高齢者の遺骨は見つかってるの? 人類最古のミイラとされる5300年前のアイスマンにはすでに入れ墨があったそうであるねw 宮内庁はとっくに知ってるんだろ
天皇家が朝鮮系ってわかっちゃうんじゃないの チンギス・ハーンなんか卑弥呼より1000年も最近なのに未だ墓が見つからないんだろ。
でもまあ卑弥呼しかりチンギス・ハーンしかりわからないからこそロマンが駆り立てられるわけでな…
答えが出てしまうとそれはそれでがっかりじゃないか? 現代まで生き残ってきた未開部族にも入れ墨の風習をもっているところは
多かったわけで、マオリもそうだし、ポリネシアやサモアにもトライバル・タトゥーはあったねw
アラスカ先住民、イヌイット、エスキモーもタトゥーの風習をもっていたそうであるねw 刺青はアイヌと奄美沖縄では20世紀まで入れる風習あった
日本では江戸時代に罪人に入れたのであえて入れる人はアウトローの自覚がある人だけだった 日本で文字の資料が見つからない限り場所なんて絶対にわからないから >>496
そのとおり既婚者の証だそうだお歯黒の刺青版みたいだな 沖縄には「ハジチ」があるね
同じ意味を持つ入れ墨でも島ごとに少しずつ模様が違う アフリカの未開部族もよくボディペインティングやってるわけで、あれも入れ墨と似てるよねw
「未開」などというと、植民地主義的人類学にもとづく価値の序列化だ!と文句もいわれそうであるがw >>483
沖縄では戦後間もなく頃まで伝統的な刺青をしているお婆さん達が見られた 多分1世紀くらいまでは天皇家はいても1有力勢力に過ぎず2、3世紀に頭角を表したんだろうな ハジチ入れた老婆は20世紀末まで健在だったよ
建前では明治時代に禁止されたんだが やはり明治維新は文明開化の時代であったから、未開野蛮から文明へという価値観を
日本も内面化して、野蛮と言われた風習をいろいろと禁止していったわけであるねw 見つかってるけど、文字がないからどこかを特定できない
候補はいくつかあるけど断定できない 日本に文字による記録がないから、邪馬台国の正確な位置はわからない!というわけだが
しかし文字による記録があったらあったで、そこに書いてあることは本当に事実なのか?
という疑いはやはりずっと残るわけであるねw 古墳自由に調査できれば天皇家の絶対的権力の成立がかなり遅いことは証明できちゃうんじゃないの 魏ですら公文書をしっかり残してるのに
現代のジャは改ざんしてるって悲しいね 古墳というのは権力者の墓なわけだが、古墳から骨がでてきたら被葬者の存在が
確認できるし、何もなければ何も証明できないわけであるねw 古墳の成立年代というのは
炭素同位体や年輪などをつかって測定するわけで、発掘によって成立年代に大きな
変化がおこるとは考えにくいわけであるねw 九州説の人は、反国家神道の教派神道やそれ的なスピ系の信者が多いため、今の日本では反体制派や左翼が多い
だから九州説の人はホツマとか竹内文書とか東日流外三郡誌とか大好きな率高い 畿内説の人ってなんで記紀に嘘が書かれてる!って声高に主張するんだろうね
それとも神武東征部分に何書かれてるか理解出来なかったんだろうか? 古事記なんか偽書説があるくらいだからなあ
平安時代くらいに書かれたという 古事記は日本書紀が書かれた頃にはもう廃れてた上代特殊仮名遣いがまだ存在してた頃に書かれたんだから平安時代なんてあり得んのだが へーなんで人類はそんなに墨入れたがるんだろ
変な生き物だってことやね 偽書説
『古事記』には、近世(江戸時代)以降、偽書の疑いを持つ者があった。賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義、中沢見明、筏勲、松本雅明、大和岩雄、大島隼人、三浦佑之、宝賀寿男らは、『古事記』成立が公の史書に記載がないことや、序文の不自然さなどへ疑問を提示し、偽書説を唱えている[14]。 ちゃんと畿内説だ
さいきん近畿説とか言っている人がいるからなあ 古代の民族は呪術、呪いを信じていたわけで、魏志倭人伝にも「持衰」という呪いについて書かれているねw
入れ墨というのも、古代においては呪術的いみあいがあったのでは?という意見もあるねw 中世の耳なし芳一の話では、平家の怨霊から身を守るために全身に有り難いお経を書いたりしたが
刺青文身というのも、様々な悪霊から身を護る効果があると古代人は考えていたわけであるねw 古事記偽書説は随分昔からあったが、本居宣長が古事記について、非常に実証的学問的詳細な注釈を書いて、それから古事記は偽書にあらずという説が主流になったというねw
だから本居と古事記伝の影響は極めて大きいわけであるねw 本居宣長って、アマテラスを無理やり女性神にしたキチガイでは アマテラスが女神なのは本居が重要視してなかった日本書紀にも書かれてる事なんだが >>356
日本書紀 景行
十八年春三月 天皇將向【京】 以【巡狩】筑紫国
この【京】を近畿の都とすると、筑紫国を【巡狩】するということは筑紫国自体を「辺境」と見なしていることになる
とすると、筑後から筑前にむけて、筑紫国を南北に巡るのでなければ、この【巡狩】の語意に相応しくない
ところが実際の巡行は、君の貼った地図の通り、熊本から島原へ行き、このあと「筑紫の南辺(福岡の南辺)」を往復している
か「筑紫の南辺」だけを巡ることがなぜ『巡狩筑紫国』になるのか?
という疑問から筑紫の中央部を原点として筑紫国の辺境たる「南辺」を【巡狩】していると考えると【巡狩】の用法にピッタリになる
つまり書紀に書かれる【京】は「筑紫の中央部」にあり、【京】と表現するからにはその一帯は既に(景行巡幸時には)近畿勢の影響下にあったのではないか?とする想像だよ
この時代を古墳の分布から「4〜6世紀の話だ」という君のお気持ちは否定しないよ
君だってそれが確定できてるわけじゃないし、無論オレだってそれを否定する証拠は持ち合わせていないから
まあ、この部分は古事記には一切出現しないので、書紀にだけ「あとから嵌め込んだ」とも考えられるということは一言添えておくよ
※【巡狩】
天子が辺境を巡行すること
中国の史書に見られる言葉
例 天子、方を省みる 之を巡狩と謂うなり
(『左氏』荘 二十一 注)
天子、諸侯に適く、巡狩と曰う 巡狩は守る所を巡るなり
(『孟子』梁恵王篇下) 日本書紀に言う京(倭京)とは今で言う太宰府の事だぞ >>515
工藤隆『古事記の起源』に記された説だね
しかしそれに対して「古文をすらすら読める現代人が居るように、奈良時代以降に『上代特殊仮名遣い』を使い分けられる人間が皆無だったとは言い切れない」と大和岩雄が反論していることも申し添えておくw >>527
特殊仮名遣いは「ユキケコトソノヒヘミメヨロ」に二種類の漢字を当てるのだが平安時代には「コ」だけが残った
そしてここには挙がらない「モ」の使い分けを『万葉集』、『日本書紀』はしていないが『古事記』はしているので古事記は万葉集より古い時代に書かれたのは確実で「偽書は有り得ない」という主張に対して
しかし「ト」に関しては『日本書紀』より新しい『万葉集』は使い分けが出来ているので、一部の知識人は特殊仮名遣いを覚えていて綿々と引き継いでいたのでは?
むしろ『古事記』は『日本書紀』や各地の『風土記』では曖昧になっている『モ』を完璧に使いこなしているのでむしろ怪しいという主張
オレは「古事記は偽書でない」と信じているが、どっちが正しいのかはよく判らんw >>465
持つものもあるだから、モテ男が一夫多妻を謳歌している数だけ一生独身のわしらがいたんだぞ >>530
同時代資料である木簡の用字だと
上代特殊かなとか適当なのに
それらの歴史書がかなり厳密厳格に書き分けしてるのがむしろおかしいんだよな
偽書だとか特殊仮名を否定するわけじゃないが
おそらくそういう記録とかはほとんど渡来系が担ってたんだろうな
日本人だとあいまいな発音を細かく聞き分けてたと まあ、音で書き分けてたというのは後世のガイジが勘違いしてるだけだろうね >>533
そんなところだと思う
故に上代特殊仮名遣いだけを理由に古事記の真偽を語るのはちょっと違うかな、と
もちろんひとつのファクターではあると思うけど そりゃそうでしょ
海の向こうにも倭種の国あるってあんだし
九州想定でしょあの書き方 >>523
無理矢理ではなくて、古事記に書いてある通りを忠実に訳そうとしただけであるねw 古事記というのは普通の漢文では書かれていなかったわけで、宣長が解読するまでは古事記はほとんど誰もまともに読めなかったわけであるねw
宣長の読解に匹敵するのは、シャンポリオンによるロゼッタストーンの解読であろうかw 大和朝廷を邪馬台国の正統後継者にしたい畿内派がピーピーうるせえったら
文化文献遺伝子地形地名どれをとっても九州説を裏付けるものばかりなのに 日本の考古学会よくないと思うよ
考古学的成果を過剰に拡張して文献史学に介入しようとしている
そりゃ神の手事件も起こると思ったわ 邪馬台国が本当にあったかすら怪しいのでは
旧約聖書にヒントがあったはず 三国志だけでなくて後漢書から旧唐書まで連続した国として倭国が描かれてるからね
そして新唐書の日本伝でおなじみの神武以来の天皇とか空海とかの名前が出てくるそれまでの倭国伝には記紀に出てくる名前は出て来ない記紀にも倭の五王は出て来ない YouTubeかツイッターだかの言語オタクが魏志倭人伝解析して畿内説で間違いないと言ってたのを見たが >>545
在っただろう
日本列島じゃないってだけでw 考古学者の書いた本だと
結構無批判に記紀引用するんだよな
とある前方後円墳の本で
その考古学的な見地からの天皇陵の推定年代と
記紀による天皇系譜比較してだいたい合ってるみたいな書きぶり
まずその天皇がいたかどうかとかは抜きにして 聖徳太子のところで突然多利思北孤に擦り合わせてくるのなんなんって思う 倭は日本列島内のことにしたいという東大閥や京大閥、九州大学閥、歴博の妄執の賜物だろw
いつまでも戦前の学説に囚われてるんだよアホがw
記紀自体がいい加減な代物なんだからいい加減目を覚ませといいたいわ
おまえらのやってることは学問じゃなくて宗教w >>553
あれも無理矢理だからな多利思北孤って妻がいる男の王なのに年代で当てはまるのが推古になってしまうから聖徳太子と間違えたんだろうと無理矢理
新唐書日本伝では用明になってるけど用明だと年代が合わない >>546
旧唐書「日本(大和朝廷)は倭とは別種」 >>381
無いよ
集落の大掛かりな社会事業として遠隔地と通交する事なら有ったけど >>386
三国志の記録はそれなりに正確,国の公文書公記録を基に書いてるから当たり前だけど >>390
朝廷儀礼に使われる物品はあまり変化しない
伝統格式が大事だから
魏王の副葬品が九州からのみ発見されてると云う事わ
親魏倭王が九州に存在した事の有力な傍証 >>401
倭人は会稽の東に有って入墨する民族
畿内じゃ入墨ひてないし >>411
日本人固有の文字の痕跡わ今に至る迄一切確認されて無いよ >>418
倭人の範疇に邪馬台国は記述されてる
倭人の習俗は邪馬台国の習俗で違う場合わ特筆されるの >>419
王朝が続いてるなら数百年間伝承が継承されるのが普通
氏族の歴史わ宗族制氏神制の古代人にとって何より重い物だから >>419
その2つの時代で断絶してるって事わ
間に王朝の交代が在った 黥面文身の習俗に冬も温暖で生野菜食える地域だろ
少なくとも大雪降るエリアじゃないだろ 実際畿内説か九州説かどっちかの結論出ることってあるの?
これだ!ってものが今更発見される可能性ってまだある? >>571
なんかのテレビバラエティーでどっかの先生が
「親魏倭王の金印が出れば確定もするだろうけど、考古学の見地からは近畿でほぼ決まり」
って言ってたんだけど、
卑弥呼死んでまた大乱あってイヨだかトヨだかを擁立して
晋に使いをだしたってところまでは記載をされてるということは、
親魏倭王金印って日本にはないよな。
当時の中国のしきたりだと、王朝が代わったら前王朝の属国は
印を返却して新王朝に改めて印をもらうってことをやるんじゃなかったか。 沖ノ島に決定的な手掛りがあったけど掟で話しちゃいけないことになってる >>571
ヤマト王権と呼べる様な大古墳や大集落は奈良県で
文献から判断すれば九州
邪馬台国と畿内の古代王国は関係無いんじゃね
もしくは中世の天皇,春秋期の周王みたいな存在だったか >>525
12年に豊前国の鼻垂耳垂麻剥土折猪折を倒して長狹県に行宮を建てた場所を「京」(現福岡県京都郡とされる)というて景行天皇の話で書いてあるだろ
>天皇遂幸筑紫、到豊前国長峽縣、興行宮而居、故號其處曰京也。
17年に景行天皇が詠んだ歌では「京都」と書かれており書き分けられているしな
長々書いてるが前提がおかしい
もし君の言ってた本の「妙なこと」てのがそれだとしたら「京」の記述を隠して読者を騙す作者の論法が妙
京に向けて筑紫国巡狩と書いてる項で回ってるのは肥後だし
その後回ってる御木〜八女では筑紫後国という名前が出てくるからこの辺も君の筑紫国がどうのって話と全く噛みあってない
熊襲征伐以降で敵対してるのって日本書紀では津頬と熊津彦くらいで他は協力的なんだからその辺で話を展開するのかと予想してしてたら斜め下の話が飛び出してズッコケたわ
あまりに酷かったからレスしたがこれ以上与太話の相手しないよ >>575
やはりね
【巡狩】の言葉の意味には触れずなのね
どこかのレスに書いたように「自分の知らないことは認めたくない」し虚仮にしなきゃ気が済まない人なのね
こういう市井の歴史好きが集ってる掲示板なんかには似つかわしくないよ、君 異常に古いメモが見つかったからといって信じる奴があるか 白杉江の戦いで亡命してきた朝鮮人によって日本は建国されたから
それ以前の倭国は日本の歴史ではない >>523
いや大日如来と習合して男性神になったんだが >>477
唐古鍵とか弥生期の稲作遺跡はどうすんの? >>576
京が近畿の都とか筑紫の中央部が京とか頓珍漢なこと言ってる奴の精神勝利は滑稽だねえ どうせ架空の記述だし、あったとしても他の建物や集落の遺構と区別なんかつかないから永久に見つからないよ
はい解散 架空の意味がわからないんだが魏志倭人伝にウソ書いて万一ウソだとバレたら処刑されるくらいの話じゃないの
1人で行ったわけでもないだろうし モリカケの事ですらわからなくなるのに邪馬台国の事なんてわかるわけないよ たとえば為吾国が伊賀で対蘇国が土佐って話あるよな
当時からそう言ってたんだなと感動する いずれにしても当時は日本各地に独立国があったんだし
割とどうでもいい >>587
基本的に土地の名前って千年単位で変わらないんだってさ
だから名前は信用してもいいと思う 質の悪い九州説論者が頓珍漢なこと言って足引っ張るから困る
景行天皇語るなら日本書紀くらいは目を通してくれよ
本読んでそこで満足してるから京なんてちょっと読んでれば誰でも分かることすら分からず恥かく >>584
そもそも陳寿は倭国に行ってないし、調査団を派遣したということもない
魏志倭人伝は全て伝聞、しかも倭国に行った人に聞いたわけですらなく
中国国内で倭国に関する記事を集めたに過ぎない 九州説論者の勘違い@
魏志倭人伝の倭国は温暖だから邪馬台国は九州!
九州北部と近畿中部の気温はほとんど変わらない
しかも九州北部は日本海側なため、雪がよく降るのに対して
大阪や奈良の平野部は年に1回雪が降るかどうかであり
魏志倭人伝の非常に温暖な描写には九州北部も合わない
ちなみに、鹿児島ですら山間部はよく雪が降る
なので、温暖な描写は沖縄か台湾あたりの情報が混入している可能性が高く
間違っても九州でも近畿でもない
ちなみに、古代中国において倭国とは東の海上にある島々全体を指している
そのため、後の時代でも東シナ海の海賊集団が日本人でなくても倭寇と呼ばれたりしている 狗奴国は久能国だろうね
大和国(西国)vs久能国(東国)
戊辰戦争まで続いた日本の伝統的な地政学的対立構造は弥生時代からあっただろう
大まかな地形は変わっていないのだからな >>593
当時でも対馬経由なら大陸と日本の行き来なんて容易いものでしょう 九州説論者の勘違いA
三角縁神獣鏡は全て仿製鏡だから畿内でいくら見つかってもノーカン!
古代中国の鏡は非常に細かく製造年代の分析がされており
三角縁神獣鏡以前の、後漢末の時点ですでに鏡の配分の中心が九州から畿内に移っている
なので三角縁神獣鏡だけを否定しても意味が無い
そもそも、九州から畿内に鏡の配分が移っている経緯があるからこそ
魏の年代の入ったものもあり技術的にも魏のものと判明している三角縁神獣鏡が
圧倒的に近畿で見つかっているという事実が重要なのであり、
そういう脈絡を無視して恣意的に選んだ1部の鏡が九州に多いとか全く無意味な議論
もし仮に九州説論者の言うように三角縁神獣鏡が全て仿製鏡だとしても
近畿で鏡を大量生産し日本全国に配布していることになるわけで
畿内に当時の日本の政治的中心があったという事実の補強にしかならない 志賀島〜糸島が手がかりなんだけど
あの辺から糸を手繰るのがいいと思う >>596
帯方郡の下級役人や商人は日常的に行き来していると思われる
しかし魏志倭人伝には九州に1年でも滞在して雪や寒さを体験すれば
すぐに間違いと分かるような記述をしていることからマトモな取材をしていないのは明らか
中国の首都圏から行き来するだけでも何ヶ月もかかることを考えたら無理もない 向こう側が目視できる50キロメートルの航海だけできれば大陸に渡れるんだからな
日本は当時でも全然神秘の国でもなんでもないよ
https://i.imgur.com/ZqBWsrV.jpg
https://i.imgur.com/ppbNA9J.jpg 漢委奴国王以前の小国乱立してたあたりで絶対文献が出ないのは、やっぱそうなんかな 九州説論者の勘違いB
鉄器がたくさん見つかる九州こそが邪馬台国に相応しい!
当時の鉄器といえばほとんど武器であるが、首都や大都市ならば武器が多いなんてことはない
武器が多いところが首都なら、現代日本の首都は最大級の米軍基地のある沖縄になってしまうし
元寇に備えていた鎌倉時代の首都は太宰府になるだろう
また、軍縮している独仏よりも政情不安のバルカン半島やウクライナの方が
繁栄しているという話になってしまう
武器の多い少ないは軍事的緊張の大きさに比例していて、繁栄レベルとは関係が薄い
ちなみに、同時代のローマの鉄剣と漢の銅剣では、銅剣の方が強かったという研究もある
細かい加工のしやすい鉄は有用であるが当時において必ず銅より強かったとは言えない 古代史の話になると必ずスピ系が沸くからな
古史古伝を史実にしようとして躍起になってる変な連中 >>604
漢の側も政情不安が大きくなって他国に構ってられなくなったんじゃないかな
もちろん小国乱立状態の倭国から遣いを出すのも無理だろうし
金印が中国に返却されず、日本国内で発見されたのも
倭国大乱で紛失したか隠匿された可能性が高いね >>594
温暖だから、なんて言ってる奴いんのか
ていうか当時と今じゃ気候は違うぞw
そもそも邪馬台国時代の銅鏡出土は福岡が圧倒的という事も知らないとか
もうやばすぎだろうw 文献史学的なのは捻じ曲がるから考古学とDNA系の学者にお願いしたいけど
てか未だに邪馬台国の場所すら分からんてやる気あるんかな >>608
その邪馬台国時代とかいう謎のネーミングからして嘘くささ満載だな
邪馬台国が中心だった時代がいつからいつまで何て誰にも分からない
そんな怪しげな区分を使う時点で恣意的にねじ曲げようとする意思が垣間見えるよ
数十枚しかない10種の魏晋鏡という謎の分類の鏡は圧倒的に九州に偏っているが
後漢7期と言われる漢末の鏡や魏代と確定している三角縁神獣鏡は何百枚と畿内で見つかってる
それ以前の後漢5期以前だと九州が多い
つまり、その間に日本の中心が九州から畿内に移った >>605
頭悪すぎてやばい
北部方面隊の司令官の陵墓なんて作ってるのか?www
在日米軍司令官の陵墓なんて作ってるのか?wwww
一体どこにあるんだ?wwww >>611
陵墓があれば首都だというなら
3世紀前半から半ばと思しきものは畿内に偏っているので畿内説優位だな
当時の九州は鉄器はたくさん見つかるが古墳はない
まさに武器は山ほどあっても政治の中枢からは程遠い今の沖縄みたいなものだ 結局、どっちの説でも北九州は大陸との交易が活発だったことは共通しているんだから
その3cの北九州が畿内政権の支配下にいたかどうかを立証すればいいんじゃね >>613
鏡の配分や都市遺跡、あるいは古墳の分布から
後漢末には既に日本の中心は畿内にあったと推定されている
卑弥呼の生きていた時代においては、畿内が九州を支配していたことは有り得ても逆はありえない
むりやり九州説で理屈が通るような説を唱えるなら
九州=邪馬台国側、畿内=狗奴国側で邪馬台国はかなり劣勢だったという話になる
しかし、畿内中心に見つかる三角縁神獣鏡は魏の技術が使われていたり
同じ文言の鏡が中国で見つかったりしているので
畿内が中国と国交のない狗奴国ってのはやはり無理がある >>610
邪馬台国時代が分からないとかガチガイジw
邪馬台国時代が何時頃の国かも分からないのに邪馬台国の事語ってんのかよwwww
三角縁神獣鏡なんて古墳時代のものまであるのになw
ていかう数十枚しかないって、平原遺跡(卑弥呼の墓)からだけで40枚出土してるのになwww
ところで畿内説の卑弥呼の墓からは何が出土したんですか?w
>>611
言われた事が理解出来なくてウケるw
え、沖縄が首都なんですか?
在日米軍がいるとこが首都なんですか?
北部方面隊基地が首都なんですか?w >>615
平原遺跡の鏡はほとんど仿製鏡ですが……(困惑)
だから、武器だけがある沖縄が首都で無いのと同様に
武器ばかり出てきて当時の古墳もない大型遺跡もない九州は首都ではないと言ってるんですよ
日本語分かりますか? >>616
武器だけがあるwww
畿内説は「何も無い」の間違いかなw
箸墓からは銅鏡どの位出土しましたか?
平原からは銅鏡"だけ"でも40枚ですが
沖縄では司令官が死んでも陵墓を作って副葬品収めたりしない
福岡には陵墓はいっぱい、鏡もいっぱい、武器もいっぱい
ちなみに畿内には何があるんですかー?
https://www.nishinippon.co.jp/image/436978/ 九州に決まっとるやろ
まだ字を持ってないから
魏の人「どこからきたの?」
倭の人「やまとたい!」
魏の人「ヤマタイ?(邪馬台でええか)」 あ、そうそう平原の鏡のどれが仿製鏡なんだい?w
勿論例示出来るんだよねwwww >>619
じゃあ他の語句も全部そうならないとおかしいなw
ていうか「どこからきたの?」って発言するのは倭人の方だろwwwww とりあえず邪馬台国と記述合ってる遺跡でてるのは九州だけなんだよな
纒向とか規模が大きいだけで記述と大違い おそらく邪馬台国の時代には小国分立してるんだろうから邪馬台国が九州でも同等以上の国が近畿にあっても全然構わないよね 春秋の筆法で数字を10倍とかにする嘘を書く文化が中国にあったと中国の研究者が言ってるから
「記述通りなら太平洋にでる」とかの指摘はもう通用しないんだよな 確かにw
「魏志倭人伝」なんて酷い言いぶりする文献に性善説求めてもね そもそもこれ江戸時代のネトウヨみたいな連中が言い出した論争であって日本史にとってそこまで重要な話でもないんだよな ヒサラストエンペラーが宮内庁解体の時に言うだろ
安倍庁のようなことしてたから何が起きるか マジレスすると女王がシャーマンだったので全てが謎にされてしまったかららしい >>624
魏志にも中国地方には倭種の国がいっぱいあるって書かれてるしな
四国がなぜか小人の国だけど
>>626
魏志倭人伝は日本が便宜的にそう呼んでるだけで、そんな名前の文献は無いからな?
まあ、オリジナルは東夷というもっと酷い言葉使って区分けしてるけどなwwww 卑弥呼のイメージは沖縄のノロに近いな
琉球王国の第二尚氏王朝の第三代国王、尚真王時代に制定された神職。琉球神道はアニミズムと祖霊信仰を基本とするもので、海の彼方のニライカナイと天空のオボツカグラの他界概念を想定する。これらの他界に太陽神(ティダと呼ばれる)をはじめとする多数の神がおり、また生者の魂も死後にニライカナイに渡って肉親の守護神になるとされる。こうした神々は、時を定めて現世を訪れて豊穣をもたらし、人々を災難から守護すると考えられている。宗教概念上、ノロはこれら琉球の神々と交信することのできる存在であり、また祭祀の間はその身に神を憑依し、神そのものになる存在とされている。そのため、ノロは神人(かみんちゅ)とも呼ばれる。
ノロは、しばしば「巫女」と訳されることがあるが、ノロは現在、本土でみられる神道の巫女にイメージされる神主の補佐役や雑務役ではなく、祭司そのものである(本土の巫女も元々はノロと同様の存在であったと考えられている)。民俗学では「祝女」の当て字がされるが、これは男の巫を意味する「祝」の女という表意になる。これはノロの性格が本土でいう巫女よりも男性神職に近いためであろう。なお神と交信し、神を憑依させることができるのは女性に限定されているため、神官であるノロはすべて女性である。 >>617
え? 3世紀中ごろの陵墓なんて九州にほとんどないぞ
その数少ない1つの平原遺跡なんて日本製の鏡ばかりな上に殉死者を大量埋葬は無理な規模で
しかも卑弥呼と関係の無い前漢鏡が出てきたりしてる >>627
邪馬台国が何処にあろうが大和朝廷には関係ないことだけど
皇紀とかいう大嘘をつくためには辻褄併せが必要だからね >>633
いっぱいあるが、ガイジが知らないだけじゃんwww
で、畿内には何があるんですかー?
そこから何が出土したんですかー?
いつまでも返答出来ない畿内説ガイジ君www
日本製の鏡?ほうほう、具体的にどれ?wwww
いつまでも返答出来ない畿内説ガイジ君www >>624
女王国と同等の勢力が複数は無理
魏志倭人伝における女王国の戸数は15万戸以上(内邪馬台国7万戸)
当時の日本の推計人口は50万人〜70万人
少なめに一戸4人としても日本の総人口のほとんどを占めていたことになる
誇張があったとしても人口の大半を女王国が占めていたことは間違いない
日本の最大勢力だったことは疑いようが無いだろう >>635
柳田康雄教授によれば40面中38面が仿製鏡
まあ、46cmの銅鏡とか中国製ではありえないってすぐ分かるよな
奈良は古墳群に関しては巻向にオオヤマトに3世紀のものだけでも数十基は確実な上に
都市遺跡もあるので当時の日本の中枢と考えざるを得ない 魏志倭人伝の中の邪馬台国は九州で間違いない
けどそれで結論を確定させてしまうと都合悪い人が多いんだろ >>640
あぁ、三角縁神獣鏡と組成の似てるのだけが舶来鏡で他は仿製鏡って言ってた人ね
でも真実は三角縁神獣鏡の方が仿製鏡でしたーwwww >>641
九州では魏志倭人伝の記述とは距離も方向も合わない
畿内だと距離は大体合う >>644
九州が魏志倭人伝の記述と距離も方向も合うんだが
しかも東に渡海千里したら丁度中国地方と言うね
ガイジ君が記述内容を理解できてないだけって話だなwww 三種の神器に親魏倭王印がない時点で近畿説はちょっとねw >>646
晋にも朝貢してるんだから親魏倭王印が日本にあるわけが無い
親晋倭王印みたいなのはあるかもしれんがな 邪馬台国と大和朝廷がなんで分けられてるのか正直わからん >>650
山口は女王国(伊都国)から渡海千里と書かれてるやろがい 古代の言語学と地名から言語学的な観点から近畿説ってのは面白かった >>647
国変わったら前の印鑑返すと言われてるけど漢委奴国王印返してないのはなんでなん? 淡々と証拠を積み上げていく九州説
声の大きな畿内説
うーん🤔 >>653
委奴国は伊都国だし、返さないとおかしいよな
でも倭国大乱で紛失したんだろ
だから交換じゃないからあげた事を明記したんだろう 前方後円墳っていう字面だけを眺めても
あの形は想像でけへんわけやん?
それってグッポじゃない?
なんの意味もない名前を呪文のように唱えてるだけじゃん
卑弥呼の時代とやってること変わらんやん >>636
春秋の筆法で約10倍にされてるから
実際には人口も古墳の大きさも10分の1 >>660
じゃあ寿命が80歳〜100歳の倭人も実際の寿命は1/10の8歳〜10歳かよ
あほくさ >>664
アホくさもなにも
春秋の筆法という嘘を織り交ぜる書き方をするのが古代中国の伝統だから仕方ない
それを前提に読むしかない 獻上男女生口三十人も実際に献上したのは1/10の三人か 本当は九州なんでしょ?
九州だと明らかに大陸からの影響が見えてしまって朝廷は日本起源ですと言い辛くなるから >>636
人口推定はそんなものだと思うがそれでもその時期に統一国家的なものがあるだろうってのは無理すぎる
田村麻呂が白河の関以北に跋扈する蝦夷と苦労して戦ったのは800年にもなってからだからな 江戸幕府ですら外様はコントロールできず結構苦しんでるんだぞw 九州説だっていう動画がつべにたくさんある
見てると九州説の方が納得だわ
畿内説は自分ルールで勝手に読み替えないとだから 金印がなあ あれ偽物作るにしても古代に作った他国の金印の寸法規格知らないとダメなんよな そんなん江戸時代に知りようがないわけで >>669
少なくとも5世紀には岩手県境辺りまで和人化が進んでるしな
古墳時代前期から中期に該当する4〜6世紀には、前方後円墳・箱式石棺や横穴式石室・横穴墓が東北南部にも数多く造営され、北限は岩手県奥州市にまで分布域を広げるようになる。
しかしこれとは別に、東北北部では、土坑墓と考えられる独自の遺構群の存在が確認されている。さらに7〜10世紀には高塚古墳に似て非なる「終末期古墳」が築かれ、北上川流域を主たる分布域とするようになる。
https://i.imgur.com/sjW2kHM.jpg
しかし東北北部の土坑墓や終末期古墳では、断片的な骨格の部位が確認されればまだましな方で、土壌中における腐食や盗掘による撹乱あるいは風化によって、人骨が完全に消失しているケースがほとんどである。
実際に保存状態の良好な古人骨が出土するのは、もっぱら東北南部における横穴墓、洞窟遺跡に限られているのが実態である。
顔面平坦度に関する項目を含めた頭蓋計測値18項目に基づいて集団間でペンローズの形態距離を求めると、
宮城県塩竈市清水洞窟や仙台平野熊野堂横穴墓集団などは西日本弥生人・東日本古墳人に類似するが、東日本縄文・北海道アイヌとはまるで正反対の領域に位置づけられる。
東北南部には開拓を期して特に関東を中心とした各地から数多くの移民が入ってきたことが、この墓制が彼らによって導入されたとみてよい。
ミトコンドリアDNA分析の結果
https://blog-imgs-144-origin.fc2.com/g/e/n/genomuseum/emishi.jpg
核ゲノム分析の結果
https://blog-imgs-144-origin.fc2.com/g/e/n/genomuseum/emishi2.jpg
参考文献
JSPS 科研費 26440257 基盤研究 (C)エミシとは誰だったのか―学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像―(代表:安達登)
JSPS 科研費 16K18631 若手研究 (B)古代ゲノム分析による関東古墳時代人の親族関係と遺伝的構造の解明(代表:神澤秀明) 蝦夷が人種的にアイヌだろうと和人だろうといいんだが800年でさえ服従させられなかったんだから1世紀なんて当然権力なんて分立してただろう 印なんだから墨つけてポンと押せば実寸大のサンプルが手に入るし
中国は古印とか盗掘しまくってそれなりにあったし
中国には古い印鑑の図版とか図鑑を作る物好きがいたし、
それは鎖国時代だって普通に日本にも渡っているし >>674
数字を1/10にするのは自分ルールで勝手に読み替えてないのかよ 距離は旅人が自分で確認できるが人口は旅人が自分で確認できないからな
大陸から攻められないように誇張して教えられたかもしれん 大和王朝と邪馬台国は別物ってことを認めないと、いつまでたっても見つからないよ >>680
何だそれ
そんな係数かけたりしてねえわ
お前が何のことを言ってるのか謎だ 魏志倭人伝の記述が魏当時の記録をもとにしつつも
他の魏の史書(魏略、魏書、広志など)の記述をもとに作ってるから
かなり変わってると考えられる
おおもとはもっとシンプルにたぶん北九州に女王国があったレベルの話で
そこから畿内の邪馬台国(後世のヤマト政権と同一視される)の話が
あとでくっついたんだろうと だから魏志倭人伝の記述からもっとも古い形を復元しないと
ほかの史書が逸文だから難しいんだろうけど >>593
三国志はむしろ編纂までのタイムラグ少ないからマシな方でしょ
晋書とか後漢書とかも数百年後の唐の時代に作られてるし三国志がダメなら中国の史書の大半がダメになる その昔どこか酒会社の偉い人が東北人は熊襲の末裔といっていたが
DNA的には宮城県の仙台(多賀城)以南の人は関東人と大して変わりない
温暖な弥生時代に青森まで稲作が広がり本州北端まで倭人化したあと
気候の寒冷化で岩手県や秋田県以北は稲が全滅してほぼ無人化したらしい
その後に北海道系文化が北東北に広がり南東北の文化と対立関係になる
恐らく北海道文化人が無人化した北東北に移住してきたのだろう
ヤマト政権側は後々まで日高見(北上、今日の岩手県)以北の蝦夷を
賊軍としていたが恐らく大昔は津軽まで倭人が住んでいた歴史的記憶を
後々まで伝承していたからだろう
ヤマトによる全国支配は九州説論者が考えるよりも意外と古かったと思われる いや和人だろうと800年でさえ統一できてないじゃん
戦国時代も知らんのか?
邪馬台国の頃多国分立でなんの不思議もないだろ >>661
なぜ中国人は大昔にこんな正確に距離測れたんだろうか
頭良すぎるでしょ昔の人 九州説は古神道系のスピが支持してて
ホツマとか東日流外三郡誌とかムーとか
神代文字とかが好きな連中が多い
だから徐福がどーとか素盞嗚がどーとか
新興宗教みたいな事をいう
また反国家神道で左翼思想の人も多い
九州説論者に江戸時代がウヨが多く
明治以降ち左翼が多くなる理由はコレ >>674
それ言うと「学会では畿内説で決着してる。」「素人が騒いでいるだけ」と必ず言う奴が出てくるけど
考古学会がレベル低いだけだと思うわ
畿内説の代表的なのに寺沢薫がいるけどこいつの言説を調べてみるといいよ 九州説論者はスピ系というだけでマトモな学者は相手をしない
その証拠に九州説主張者は低学歴が多い 韓国→対馬→壱岐島→松浦→糸島→博多のルートはほぼ確定なんだから近畿説はそこから崩していかなきゃ! >>693
別に考古学者でも文献学者でも九州説の人はいるし
当然トンデモなわけではに
なんせまだわからないんだから決着もくそもないしな
(まあそれぞれの立場の学者は〇〇に決まってるって言ってるだろうが) 万世一系を本気で信じれば1世紀に畿内に王朝があり全国支配してたことにする方が都合がいいってだけで別に九州にちょっと大きめの独立王朝があったって構わないよね >>653
返す前に滅んだんじゃね奴国
ってか、国が攻め滅ぼされるときに奴国王が金印もって逃走して
後から掘り起こすように埋めたとかさ >>631
烏丸鮮卑東夷伝倭人条
って、すげえひでえ字面よなw
多分こんだけ卑下されてしかも雑魚扱いされてるのが
変なプライド傷つられて「魏志倭人伝」なんてな俗称産み出したんかね?
東夷伝倭人条→倭人伝
みたいなせめてもの格上げで抵抗してるんだもんな。 邪馬台国と大和王権を同一視しようとする無茶が畿内説には内在している ちなみに倭人っていう言い方には中国では全然否定的な意味はないからな
よく誤解されてるが 普通に中国の歴史書に邪馬台国から阿蘇山の煙が上がって見えると書いてあんじゃん。 小国が乱立して戦いまくってる時代なんだから連合も分裂して滅んで別の国に置き換わってるってオチだろう
南北朝の時、南朝の懐良親王が明に朝貢して「日本国王良懐」となったから足利義満は良懐を詐称して遣いを送ったが
同じ様にして邪馬台国が滅んだ後も朝貢した国が邪馬台国を継承していったのかと >>661
その海路で畿内説言う奴いるけど四国のほうがあり得るな 後にヤマト名乗るのって記録が中国に残ってる邪馬台の後継を匂わすためだけだろ
記紀に連続性が記されていない以上同じ政権とは考えられない >>11
伝聞の伝聞で書いてる
独立した列伝になってないし
書いた方もこういう話あるよ程度 同一政権と神武東征を両立させるには九州説しかないのにな >>701
あるから改名したんだし
そもそも古代中国は野蛮人に変な漢字当てまくりだろ だからヤマタイもヤマトももともとは固有名詞じゃないんじゃないの?
大陸側が勘違いしただけで >>661
魏志倭人伝だと女王国は伊都国から200里ばかり行ってから
さらに水行1月(+陸行1月?)の邪馬台国からさらに
遠方まで伸びていて
そこから海を渡ってさらに1000里のところも倭種の国があり
イ朱儒国があると書いてある
伊都国から1000里ではない >>700
ない
そもそも邪馬台国がどこにあろうがその時代に大和朝廷なんて影も形もないから無関係 >>696
まっとうな学者もいるにはいるだろう
しかし、一般向け書籍と漫画や小説による刷り込み、
さらにはつべ動画を駆使して印象付けるという作業を
熱心にやっている九州説論者の手法は、ネトウヨビジネスや
スピリチュアル系とやってることが全く同じ
九州説の大家とされる古田氏にしてもトンデモにあっさりと
ひっかかるような人で信用性がないんだよ なんかこのスレ詳しいやつ多いな
無駄なところに労力使ってるなケンモメン😹 弥生時代は縄文人しかいなかった日本列島に中国南部の江南人が渡来してから
始まって、弥生中期には中国東北部の北方系民族が朝鮮半島を南下して
北部九州に渡来して住み着いたが北部九州には長くは住まずに本州に
移動している。従って北部九州の民族と本州では異民族だったと言う
事になる。邪馬台国は東征前の九州北部に存在した国家 >>668
西暦100年ごろまでは九州が中心だったのは間違いない
しかし、後漢末から銅鏡の分配が畿内中心に変わっており
3世紀になると古墳や都市遺跡の面で圧倒的に畿内優位になる
卑弥呼の時代はその畿内優位のころ 慣習からだけだと邪馬台国はむしろ沖縄王朝に似てるな >>712
大和(大倭)をヤマトと読む注釈がついたのは奈良か平安頃
それまでなんと読んでいたかは不明 九州説論者とムーの相性の良さは異常
スピ系の巣窟だね 倭国大乱があったのは桓霊の間(146-189)
何年も互いに攻め合った
そんな地域で卑弥呼は共立された
長年の戦争で国々は疲弊し衰退したかもね もう見つかってるよ
ジャップが理想の邪馬台国を求めるから違うことにしてるだけ そもそも魏志倭人伝の記述にある方角や距離に関しては曲解しないと日本に辿り着きすらしないという 陳寿がオリジナルを書いたのが290年頃
今の時代に資料とされてる「魏志倭人伝」は12世紀に写本されたもの
この間に中国では言語が何回も変わっている
まずここで正確に写本されているのか?そもそも古代中国の測量技術等がどこまで正確であったのか?
伝聞を書き記したものであるがそれがどれだけ正確なのか?
などなど、たくさんのハードルがある中でアマチュア研究家、歴史作家を中心に個人的なイデオロギー、ロマン満載で曲解を繰り返して
論争を繰り広げるジャンル。それが邪馬台国はどこにあったか? 卑弥呼の墓とされる巨大古墳が近畿にあるから
近畿だろ?
最初期の古墳やし更に 観光資源が絡んでいるから畿内説の連中が負けを認めないだけのこと >>730
九州説がそうなってる
おらが町にも邪馬台国というノリで町起こしかってくらい九州のあちこちが邪馬台国候補地になってる 結局、文字がなく記録が日本側に残ってないので分からないんだけど
考古学的には魏志倭人伝の時代は近畿が最大勢力なんでしょ
魏志倭人伝の邪馬台国がどこかは日本側に記録がないので
親魏倭王印といった決定的な物証が出ないと永久に分からないけど
最大勢力は近畿にあったってだけで俺は十分と思うけどね 渡海してない水行を無理やり「渡海した!」と解釈しないと成り立たない時点で畿内説はない 魏志倭人伝には邪馬台国が最大勢力だなんて書かれていない
女王国の東に海をわたるとまた倭人の国があると書かれている
一方、崇神天皇の時代の畿内ヤマトは東西に四道将軍を派遣して勢力圏を広げていた 天皇グループが広域に実力支配したのって継体天皇くらいからじゃないの 畿内ヤマト勢力が九州まで勢力を広げるのは卑弥呼よりも後の時代
崇神 四道将軍の派遣(北陸、東海、吉備、丹波)
垂仁
景行 九州へ熊襲征伐
成務
仲哀 九州へ熊襲征伐
神功 三韓征伐 >>735
いや、邪馬台国がどこかは関係なく
日本史的には最大勢力がどこかの方が重要ではって思うんだけど
魏の時代(3世紀)は既に近畿が最大勢力だった
そこが重要なのでは
邪馬台国と最大勢力が一致するか違うかはまた別問題で 俺が思うに邪馬台国に拘ってるのって一般人だけで
考古学的にはどこに最大勢力があり、他勢力とどのような関係があったとかを
物証をもとに考察する方が盛んだと思うんだよな
親魏倭王印が見つかったと邪馬台国がどこか判明するが
それが近畿ではない場合は、邪馬台国と最大勢力の関係の研究も面白そう
あと、これは既に研究されてるだろうけど
なぜ近畿が最大勢力になったかについても知りたくはある >>740
どうも火山がないところに集まってる感じには見える >>738
邪馬台国スレだから邪馬台国が重要なのでは 倭人伝には女王国は伊都国の南にある言ってんだから九州以外ないやろ
そこまで地理に明るかった使者が突然ガイジにならんかぎり 三角縁神獣鏡も邪馬台国と結びつけた議論がどうこうより
俺は3世紀の時点で、既に東北〜九州という広範囲で交流があったって事がすごい発見と思うわ 邪馬台国は女王国というカテゴリーの中の一つにすぎない 縄文時代は暖かめの気候もあり狩猟採集に適した東日本の人口が多かった
西から稲作する渡来民が来たので稲作に適する西日本の人口が大きく増えた
ってのは定説でいいかな
で西日本のうちなぜ近畿が中心になったかと言うことだよね 近畿は地理的的には白河の関以北除くと日本の中心だから自然に思えるけど3世紀くらいだとまだ九州は火山の噴火とか多かったのかな
津波が来るところは当然除外すべきだから大阪ではなく奈良や京都が選ばれたのは自然な気がする 邪馬台国と大和朝廷の連続性はねーやろ
渡来系氏族の連続性ねーし 蘇我氏が倭の本体だったら連続性はあるやろ
飛鳥文化自体が外来 完全勝者の大和朝廷(天皇)がまつろわぬ国の痕跡を全部消した。 そんな国は無かったからだろうと思う
中国で舐められないようにふかしこいたんだろうな 邪馬台国は伊予辺りで細分化したか滅ぼされてるんやろうな アテルイだって東北の国だったと思うぞ。
完全に痕跡から破壊されたんだろうよ >>747
跡目を男王(息子?)を立てたが内戦が起きて失敗した(娘の壱与を立てたら収まった)って後日談が有るらしいから、
女系として固まってたわけじゃなかった感じだな。 継体天皇などと戯言抜かしてる馬鹿もいるが
考古学的な証拠は何一つ見つかってないからな
記紀カルト汚染が浸透しているせいでとてもじゃないが学問とは呼べない状況 木簡のような証拠も8世紀以降のものは2万点以上にものぼるのに対して
7世紀代のものはわずか数十点 笑
しかもヤマト王権の官僚機構示す遺跡などはまったく見つかってない
普通に察しろよ アホどもw >>754
言語もそうなんだよな
日本列島はかつていろんな言葉が話されていたけども
半島南部から日琉祖語を話す集団、すなわち倭人がやってきて
おそらくそれが大和朝廷に連なるような集団で
その言語が列島に広がったと >>710
これ本文旦那の論文じゃん
旦那はなんか胡散臭い歴史学会の会員の奴 アマタイコク=天臺国(アマの都)国
答え出てますw >>749
自然環境と防衛上の問題かな
九州は北部も含めて全体的に稲作に向いていない土壌
しかも当時は筑紫平野もほとんど干拓されず耕作可能域も狭い
また、夏は台風が来て冬は雪も降り、津波の心配もある
意外と過酷な環境
さらに、南方には熊襲がいて北方は朝鮮半島の争いに
巻き込まれる可能性があり、軍事費もかさむ
それに対して畿内だと稲作に問題はない
奈良盆地は台風や津波の被害は小さく雪もほとんど降らない
さらに周辺に強大な外敵はないのでじっくり内政できる
どちらが人口や生産力伸ばしやすいかは明らかで
稲作主体である以上遅かれ早かれ畿内に中心が移るのは
必然だったと思う >>685
魏や晋からみて確かに当時の倭国は弱小国なんだろうけど、
もし当時から西日本を統一してたような巨大勢力があったら
記述内容や記述量として「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」
の程度で済むとはさすがに思えないんだよね。
あんな記録マニアの中国人が。
九州一帯を仕切ってましたくらいじゃないかと俺も思う。 中華思想を取り入れただけだよ
世界の中心には天子がいると
日本の真ん中、中心が畿内だったと
当時の日本人は知ってたってこと
答え出てますw 文系と七光り化学生物組がアホばっかだから話が進まない 岩手県のみなさん
自信持って良いです
邪馬台国はどう調べても
岩手県です >>770
当時の日本全土を統一しても70万人ぐらいしか人口いない
後漢の最盛期は6000万人
魏や晋のころは流民や豪族に囲い込まれた人口が多くて
国家が把握している人口は1000万人から2000万人程度だが
それでも倭国なんぞ話にならない 何年争ってんだよ
いつまでもケンカはやめろ
もう茨城あたりにしときなさい 日本人洗脳して九州と言わせる勢力がいます
お気を付けください 神武東征して
最初に旗揚げしたのが広島は阿岐國
イワレヒコにとって
ここが中華思想で言う倭国の中心と思ったんよ
当初の倭国の範囲の答え出てますw
https://i.imgur.com/5HIAuVR.jpg 神奈川県大和市という明治時代から急に大和名乗り出した謎勢力 邪馬台国はそもそも日本じゃなくて韓国にあったとするとすべての辻褄があう >>770
ついでに
奴国2万戸、投馬国5万戸、邪馬台国7万戸、これが全部九州にあったってのはかなり無茶
3世紀の大型集落遺跡がそんなにゴロゴロあるわけがない
ちなみに卑弥呼の時代から500年後の平城京ですら人口10万〜15万人
これは戸数にすると2〜3万戸程度だろう
つまり、5万戸とか7万戸ってのは一都市ではありえず
県レベルかあるいは近畿地方とか中国地方など地方レベルのサイズと考える必要がある >>714
魏志倭人伝読んだこと無いのか?
女王国とは伊都国から邪馬台国の範囲までの連合国家だぞ
そして女王国の首都は伊都国
全部魏志倭人伝に書いてある >>782
このように方角・距離・日程など通常誤魔化すのが不可能な箇所は原型が残らないくらい好き勝手に改ざんしまくって
戸数のような誤魔化しやすくかつ誤魔化す理由もある箇所はそのまま受け取る強靭な精神力がないと
畿内説を支持することができません
というかその文章畿内説ですら否定してね? >>783
昼休みに急いで書き込んだから分かりにくくなってた
魏志倭人伝だと
女王国の範囲は伊都国から200里ばかり行ってから
さらに水行1月(+陸行1月?)の邪馬台国からさらに
遠方まで伸びている
そこまで行った女王国の端っこから海を渡ってさらに1000里のところも倭種の国があり
イ朱儒国があると書いてある
伊都国から1000里ではない >>784
九州説だと方角も距離も日程も戸数も全部合わない 戸数=人口は一番信用できない情報だな
これは無視するべきでは 俺が九州出身ということもあって、ずっと九州説が有力だと思ってたわ
最近は畿内説が強いんだな 当時の総人口およそ70万人に対して
北九州から近畿までの地域で15万戸っていうのはかなり整合性がとれている
北九州(奴国およびその周辺)で3万戸、中国地方(投馬国)で5万戸、近畿地方(邪馬台国)で7万戸
という人口配分もごく自然であり、大きく間違っていると考える必要性はない
7万戸が6万だったりはするかもしれないが、実は1万戸でしたみたいな大幅な捻じ曲げをするなら相当な理由が必要 中国人に言わせると
ヤマタイとヤマトの発音は、ほぼ同じらしい
卑弥呼には、卑しいという字が入っている
中国では、周辺国の人間に、人物を卑しむ文字を当てるのが常だった
つまり音写に過ぎない
ヤマタイ=ヤマト
ヒミコ=日の巫女
ヤマタイは、豪族たちの連合国家の名称
ヒミコは、ヤマト連合の巫女
そう考えるのが自然
ヤマタイ国はどこにあったか?
どこにもなかったし、どこにでもあったが、正解 今は九州説は素人だけで
考古学の発掘で
学会では絶滅してるんだろ >>793
違う
女王国より北は伊都国の長官が取り仕切ってるという文章
伊都国は女王国の範囲内
伊都国が糸島だとするとそれより北は山陰地方か朝鮮半島かどちらかだね ヤマタイの南にあるとされる狗奴国を考えるのが一番の近道 魏志倭人伝の、ヤマタイの戸数についての記述を真実とするならば
佐賀の吉野ケ里遺跡などではなく、誰が見てもこれがヤマタイだとなる、巨大な遺跡が残ってないとおかしい
真実は、使者はヤマタイ国に行っていない
存在しない国には行けない
「うちはヤマトという大きな連合に属してます
そこでは、大王の姉君の巫女さまの占いでまつりごとを行います
クナという豪族は、ヤマトに属そうとしません」
これが間違って、ヤマタイという独立国家があったかのように伝わったというのが真相 >>797
こういう意味不明な解釈しないと畿内説と矛盾するもんなw
どうやって北九州から朝鮮半島を取り仕切るんだ?w近代社会でも不可能w >>800
その大遺跡が纏向
使者はさすがに邪馬台国に行ったと思うが、陳寿の編纂チームは使者から取材していない
外交上のやり取りは公文書を確認した程度だと思う
伊都国までは漢人など外国人の出入りがよくあったことがうかがわれるので、
食事が口に合わないみたいなやたら細かい描写は伊都国に出入りする
商人や木っ端役人あたりが取材源だろう
倭国内の風俗なんかもそのあたりからの伝聞
邪馬台国は女王国内の都市もしくは地域名だよ
きわめてゆるやかな連合であったのはおそらくその通り >>802
まあ山陰地方のことを言っている可能性が高いけど
飛鳥時代には加羅任那といった飛び領があったことから
3世紀当時も伊都国が管轄していた可能性もゼロではない 「ヒミコの後に男王が立ったが、乱が起こったため、イヨが巫女王についた」
この伝説は、単一の独立国家でなく、連合国家の話だと考えれば得心がいく
巫女を太陽神の預言者とすることによって、豪族間の争いがおさまったというのは、ありそうな話である
琉球王国では、王の親族が「きこえおおぎみ」という最高位のノロになり、王の決定に宗教的正当性を与える役目をした
これは、古代ヤマト連合の統治機構をそのまま取り入れたものではなかろうか >>292
やっぱりバカが浅い話を平日昼間にしに来ててワロタ
ほぼ全無視されてるし
心理学研究会で忙しくしてた甲斐がないねえ 距離については>>338
万七千里が最初にありきで書かれている
陸行水行については、日数の部分に別資料の情報を持ってきてつぎはぎしている
魏志倭人伝はいろんな時代、場所の情報が切り貼りされていて水増しして書かれている
東夷伝序文に、東夷のことがわかるようになったので詳細を記すことができるようになったと書かれており
暗に司馬懿の功績を仄めかしている
そういう意味でも情報を水増しする必要に迫られていたのだろう >>806
卑弥呼が日巫女なら壹与もまた卑弥呼だろ
結局卑弥呼しか統治成功してないっぽいしその後の音信不通は滅亡すら感じさせる >>806
卑弥呼にしても多数の勢力から共立された存在であって政治的基盤は脆弱だね
王とか君主というよりも倭国都市国家連合の盟主といった方が正しいと思う ほんとはちょっとした集落を大袈裟に言い伝えただけなんだろ 九州説はスピ系の巣窟
スピの理想の古代史っておとぎ話だからねぇ >>809
そのあと中国が小国分立の時代に入るから倭国とのやり取りは途絶えたんだろうね
そのおかげでなおさら、日本がその後どうなったのか分からない
ただ、古墳文化とか祭祀の女王と軍事を取り仕切る親族の男王って構図は
大和朝廷にも見えるから邪馬台国の文化的な影響は以後何百年も続いている 人口(戸数)についても距離と同様に
大月氏国に見合うように、張り合えるように水増ししていると思われる >>791
えっと「畿内説はむちゃくちゃだから信じるバカは頭がおかしい」って主張したいの? 地名というのは千年以上残るらしい
もしヤマタイが実在したなら、地名及び、神話という形で何かが残ってると思うんだわ
宮崎、鹿児島には天孫降臨、ニニギノミコト、コノハナサクヤヒメにまつわる伝承、地名が沢山残ってるでしょ 名前忘れたけど、邪馬台国の文化的中心地は九州で、政治的中心地は畿内って言ってる歴史家いたな 邪馬台国論争にあんまり関心なさそうな言語学音韻オタクが方言仮説に基づいて漢代復元音に基づいて倭人伝分析したら畿内説になったのは面白かった >>819
言語学も銅鏡とか古代遺跡発掘してる考古学者も邪馬台国論争関係なく
研究した結果、邪馬台国って畿内っぽいねと言ってるだけだよ
九州説は江戸時代は政治的イデオロギーから出ているし
古田や安本の論争はエンターテイメントありきの娯楽
純粋な学術的研究からは離れた位置にある 畿内では金属資源も戦争文化も乏しい
列島諸勢力にマウントかけれる道理がない >>821
邪馬台国がいつマウントかけたんだ?
聖徳太子じゃないの?初マウント 銅鏡なんか根拠なく三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡と言い張ってるだけ
科学的に調べれば調べるほど舶載鏡、イ方製鏡関係なく国産ということがわかってきた >>821
淡路島に大規模な製鉄遺跡がある
あと丹後にも製鉄遺跡あり 江戸時代→ウヨが九州説
現代→スピ系や反国家神道系の教派神道が九州説
やはり教派神道の起源となった国学者が九州説だったからかね
今の教派神道は反国家神道のあまり左翼的な人も多い
日本共産党なら合理主義で無神論なんだけれども
スピ系は有神論で左翼なんだよね
以前スピ系のひとに
貧民な時点でご利益ゼロやろ?
何でそんなん信じとるん?
意味不明やわ?
普通に伏見稲荷でも行ったら?
というと何故か無言になるという不思議な人たちだった >>761
神籠石のような巨大な史跡が残ってるのに文書に関しては何も残ってないからな… 魏の時代の司馬氏が曹氏とタメの活躍をしてたと言うために捏ち上げただけなのかもな >>740
もともと近畿にいた銅鐸民から国を譲ってもらったのが大和政権だろうな >>746
黒曜石は縄文時代からだし
糸魚川の翡翠で作られた勾玉も全国から見つかってるぞ >>813
卑弥呼以降に日巫女なる肩書きが残らなかった説明お願いします >>785
ガチで魏志倭人伝読んだ事無いのか
邪馬台国までが女王国ですよって書いてるだろうが >>835
言語学オタクの復元だと姫と彦宮なんよな 投馬国は宮崎県の良い感じの平野に当磨って土地あるからそこだと思うなぁ
邪馬台国の次ぐらいに人口多いと書いてるし >>838
「水行十日か陸行一月」っていうのも無理やりよな
「水行十日陸行一月」と書いてあったら100人中100人が「水行十日ののち陸行一月」と考えるだろ
でもそれだと明らかに九州内を飛び出るから九州内に収める為に「水行十日か陸行一月」という不自然な解釈をする >>840
倭国ならそもそも水行した後に陸行するという地が存在しないからな 以下は私の直感
ヤマトの本来の意味は、「山処」 山のあるところ 特定の場所ではなく、あらゆるところ
つまりヤマトは、国名ではなく「連合」そのものを意味した 倭国の山道の描写が鬱蒼と森みたいなのに現在の開けた地形を念頭に置くから
旅程の日にちが長く感じるんだろ >>842
「山門」と書いて「やまと」みたいだよ
「みなと」と同じ種類の言葉だね
この場合「水門」と書くんだろうね
原初の日本語のようだ >>596
当時交易があった対馬の一大集落は峰地区(島の西側)だから
そこから南下する為には北風に乗って行くのは過酷 >>238
そもそも魏志倭人伝なんて存在しないぞ、東夷の事を記載した巻の中に倭の記載が数行あるだけのこと >>846
ごめん素人なんだけど、その数行を指して倭人伝といってるのでわ? なんだかんだいって
邪馬台国は面白い本が無い
古田も粗が目立たない間は面白いんだけど
読み込むとないなって感じになる >>838
1枚目えらく曲がったルートだねぇ
魏志倭人伝に出てこない西や北への進行をしてるし
文字通り曲解だな >>849
魏志倭人伝の通り南だぞw
南至投馬國水行二十曰
魏志倭人伝に書いてあるのは「南に投馬国があって、水行二十曰かかる」だ 当時は関門海峡を船で通り抜けられない。とかいう奴がいて、
そのため日本海から瀬戸内海海岸の港まで徒歩移動をして、そこの港から船で畿内へ行くというルートだったとか
その港は後の仲哀天皇の豊浦宮に繋がるとかなんとか
でもさすがに関門海峡ぐらい通れるよな >>850
もろに書いてるがwwww
南至邪馬壹國、女王之所都
南に行くと邪馬壹國、ここまでが女王の全て >>849
博多から鳥栖って歩いて2日だぞ
馬なら1日かからないだろ
何故船でそんな遠回り? どーしても朝鮮が日本を征服したということにしたいケンモメンがこの手のスレに現れるけど
それだと朝鮮人はやっぱ野蛮人ってことになっちゃうわけだが? 柳川あたりが投馬国なら
博多から歩いて2日だし馬なら半日だろ
船で20日とかって??? >>855
ガイジって道の整備された「現在」で考えてしまうよな
なんでそんな馬鹿な考えに至ってしまうのか、教えて貰いたい
しかも馬って、なんで魏志倭人伝すら読んだ事無いのに邪馬台国話に首を突っ込もうと思うのか、解せない >>856
ローマ人とゲルマン人どっちが野蛮なん? >>858
>ガイジって道の整備された「現在」で考えてしまうよな
>なんでそんな馬鹿な考えに至ってしまうのか、教えて貰いたい
>しかも馬って、なんで魏志倭人伝すら読んだ事無いのに邪馬台国話に首を突っ込もうと思うのか、解せない
牛馬はいないんだっけ?
日本で馬の骨は出てるのにね
街道が整備させてなくても陸行で10日もかからないよ >>861
街道どころか原野しかないぞ
当たり前だが、現代の靴なんか履くなよ
食料も当然持て >>862
>街道どころか原野しかないぞ
>当たり前だが、現代の靴なんか履くなよ
>食料も当然持て
博多から柳川って70キロ弱だよ
徒歩で一日7キロですか(笑)
歩けますけど >>854
女王が都にしてるところって意味だな
女王国之所都 ならばまだ分からないことも無いが「女王の全て」は色んな意味でおかしいだろ
エロビデオみたいなフレーズにしか聞こえないw >>883
理解出来てなくて脳味噌リセットされててウケるw
>>864
所都の意味が理解出来てないだけ
>女王国之所都 ならばまだ分からないことも無いが「女王の全て」は色んな意味でおかしいだろ
中国語だとそうなるんだから俺に文句言われても困る スピ系の人って宗教絡むから異常に九州説推すんだよね
まるであの団体の折伏だ(笑)
何せ神代文字とか信じてる類だからね
変な教義を作らせた古史古伝は罪深いよ >>829
水城や神籠石のような朝鮮式山城は白村江の戦い以降のものだからな はっきり言ってw >>835
姫も巫女も子も残ってるやないか
元は全部卑弥呼 >>869
その時代に九州中心に築城してる大規模な遺構の記録すら残ってない国
それがジャップランドなんだよね >>870
なんだそりゃ
日巫女じゃないな
壹与は壹与だし
じゃあ壹与って現代の何?
結局卑弥呼的統治できたのは女王国の卑弥呼だけ >>873
獣道がなんで人間の目的地な真っ直ぐ続いてると思ってしまうんだ?
脳の欠陥があるんじゃないか? 邪馬台国論争は地域おこしのネタになってるしもはや決着つくことはないだろ 最近出版された関川尚功氏の
「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」という本は
考古学者の視点から邪馬台国畿内説を否定する内容になっている
読むと纒向遺跡というのは一般に知らされている割には規模以外に目立った成果がない遺跡だということがわかるし
北九州や中国と関係があると思われる遺物もほとんどない
考古学者の立場からこういう発言がされるのは珍しいけど、今後一般にもこういうことが周知されていくと思う >>872
壹与は個人の名前で卑弥呼は初代以外は役職の名前だろ
個人の名前はその個人一代限りだから残らん 今どき人口で邪馬台国を語ってはいけない
10倍盛るのが当時の中国人
残念でしたw 10倍盛ってるから邪馬台国人の寿命は最高でも10歳だな
10倍盛る厨の理屈によると10歳以下の遺骨しか出てこないところが邪馬台国だ 人口のこと言ってんだけどw
しかも言ってんのは三国志研究の第一人者
渡邊先生です
残念でしたw 九州説派で具体的なことを言わないやつは信用できないと思ってる
県単位での位置すら言わないんだからな
福岡県の北から鹿児島県の南まで九州だぞ 九州説信じてる人ってカルト信者多そう。
神代文字とか龍体文字とか阿比留文字とか真剣に学んでて
愛読書はムーで東日流外三郡誌が聖書な感じ >>876
真っ直ぐじゃなかったら時間かかるしそもそも辿り着くかも分からんぞ、ガイジ君 >>878
だから日巫女って役職残ってないだろ
卑弥呼限り
壹与すら卑弥呼を継いでない
そもそも卑弥呼の次は男王立てたし 卑弥呼と壹与はヒムカとトヨでしょ
太陽に向かう巫女と豊かな恵みを受けた巫女
卑弥呼が天照とは思っていないが
まるでヒムカとトヨならば
まるで天照と豊受のような組合せだな 倭国大乱も記紀には載ってないんだよな
邪馬台国も含めて大和政権成立以前の話だからしょうがないんだろうけど >>882
不弥国まではきちんと九州の地名で残ってるからな。
邪馬台国から東に海を渡ると別の国があるってのが本州だろう。
倭人伝書いた人間が九州内と思って記述しているのは間違いないだろう。
金印貰った頃の奴国が倭国の一番南、
つまり朝鮮半島南部と九州北部を合わせた領域が倭国って認識で
邪馬台国の時代には九州半ばまでに広がったって認識だろうな。 明史日本伝
日本国王の下に関白の信長という者がいた。
(京都じゃなくて尾張だろ??)
信長が鷹狩りに出かけたとき、木の下に寝転んでいた男が飛び起きて信長に猛進してきた。
この男を捕らえて問い詰めると「私は平秀吉という者で薩摩人の奴である」と言った
(平?それになんで薩摩?)
体は丈夫ですばしっこく口先が達者だったため信長はこれを面白がって馬廻りの役に付け「木下」と名を与えた
(木下は苗字だしなんだこれは?)。
信長のためによく働き、後に二十余州を奪い大将となった。
信長は罪を犯した参謀の阿奇支(アケチ)を秀吉に討たせるが、信長本人が部下の明智(明智光秀?)に討たれてしまった。変を聞いた秀吉は阿奇支を滅ぼした勢いで、取って返し明智を誅滅し名を響かせた。
(明智とアケチが別人になっているw)
そして1586年信長の3人の子を廃し、自らが関白となった。
(日本の記録と1年ズレてる)
その後秀吉は諸将の兵を引き連れ明を攻めようとした。
彼は子供も兄弟もいなかった。
(息子の秀頼がいたはず)
また彼は豊後の将の妻を奪い妾とした。 諸将は秀吉の暴虐を怨み「この戦いの目的は明を攻めることではなく、我々の力を削ぐ事に違いない」と言った。 そして諸将の心もバラバラでまとまりがなかった。この様な事情で秀吉は自ら攻めて来ることはなかった。
魏志倭人伝より時代が下って正確なはずな明史ですらこの有様
まして魏史の細部なんぞ何処まで信じていいのか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています