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(無宿人島送りの始まり)
しかしながら、坑道が掘り進められるとともに労働環境の過酷さも増し、
また水替人足もより大人数が必要となったが、それに見合った応募者数が得られず、採鉱に支障が生じ始めたため。
安永7年(1778)4月3日「江戸府内の無宿者を佐渡金山に送る」という触書が出される。
かつて佐渡奉行であった勘定奉行石谷清昌の発案にもとづく制度であった。
閏7月6日、初めて江戸から56名の無宿人が囚人のように目駕籠(唐丸駕籠)に入れられ、
北国街道を通って、水替人足として相川へ送られた。これを「佐州金銀山水替人足」という。

天明の大飢饉など、折からの政情不安により発生した無宿者が大量に江戸周辺に流入し、様々な凶悪な罪を犯すようになった。
その予防対策として、懲罰としての意味合いや、将軍のお膝元である江戸の浄化のため、
犯罪者の予備軍になりえる無宿者を捕らえて佐渡島の佐渡金山に送り、彼らを人足として使役しようとしたのである。
やがて大坂からも長崎からも送り込まれ、その人数は幕末の文久元年(1861)までに1876人となった。
途中で逃亡を図る者や病死した者があった。
10年間、作業に精を出し前非を悔い再起の恐れのない模範的無宿のみ「平人」として良民に戻り、帰国を許された。
10年の務めを終えて、生きて島を出ることができたものは1割ほどだったという。
遠島の刑を受けた流人(いわゆる「島流し」)と区別するため、水替人足は「島送り」と呼ばれた。

彼らは逃亡を防ぐため竹矢来で囲んだ建坪136坪ほどの水替小屋に監禁され、全員を2組に分け、一昼夜交代で地底で酷使された。
厳重な監視付きで水替を行った。もし請船のうち1個所でも手が止まれば、役人のムチが人足の背中に食い込んだ。
魚油を灯したわずかな光しかない闇の中の坑内は通気が悪く、臭気や湿気に満ち、
落盤や地下水の突出による坑内洪水、時には火災の危険性に絶えずさらされていた。
狭い坑内に閉じ込められた大勢の作業員のため「気絶え」(「一酸化炭素中毒死」)で死ぬ人も出るほどであった。
彼らの寿命は平均3年くらいであったという。
米・野菜など食物は現物で支給されたが、報酬は小遣い銭を1日15文、休日は1年に1日しか与えられなかった。
佐渡の古い民謡の中で「一にたたかれ 二にしばられ 三に佐渡の山へ水替えに」とか「二度と来まいぞ金山地獄、来れば帰るあてもない」と水替人足たちにうたわれた。
外出は一年に一度、10月18日にしか許されなかった。この、年に一度の自由な日に、
水替人たちは、鉱山地獄で散った仲間の墓を参り、その後、初秋の冷たさを増した海で体の垢を落とした。

水替人の小屋脱走、舟で乗り逃げ、反抗なども多発した。
しかし、その都度捕らえられ入牢や拷問が待っていた。
多くは死罪となった。水替無宿の生死については一切幕府への報告義務はなかった。
普通の樋引賃金の6分の1で死ぬまで酷使できる無宿者の島送りを歓迎し、多くの無宿者が佐渡に送り込まれたのである。


相川の治助町には安政元年(1854)の坑内火災で死んだ28人の水替無宿の墓が今も残っている。
また毎年4月の第3日曜日に、無宿人供養祭が行われる。