なぜ織田信長は「たわけ」ではなく「うつけ」と呼ばれたのか?【企画・NAGOYA発】
◇『たわけ』は強いニュアンス
あまり知られていないことだが、信長公記には信長を「うつけ」だけでなく「たわけ」の記載も存在する。
1553(天文22)年、義父にあたる美濃(岐阜県)の武将・斎藤道三と聖徳寺(名古屋市)で初めて顔を合わせる際に、
道三が「婿殿は大だわけ」との報告を受けるくだりがある。
尾張側では「うつけ」、美濃側では「たわけ」と疎んじられていたのだ。
愛知県出身で、日本中世史に詳しい中部大の水野智之教授は「美濃の者が信長を『たわけ』と言っていたことが伝えられているので、
『うつけ』よりも『たわけ』の方が相手をおとしめるニュアンスが強かった可能性を想定できる」と指摘した。
「たわけ」については、江戸時代に分地制限令という法律が出され、農民が田畑を分割・相続することが禁じられ、
「田を分ける」ことは愚かな行為であるとし、転じて愚か者を指すようになったとの説がある。
ところが広辞苑で「たわけ」を引くと、真っ先に「みだらな通婚」と出てくる。
さらに日本最古の歴史書とされる古事記に「上通下通婚(おやこたわけ)」「馬婚(うまたわけ)牛婚・鶏婚」とあることも紹介しており、
本質は近親相姦(そうかん)、獣姦を表している可能性がある。
◇程よくディスった表現が「うつけ」
水野教授も「ふらちな性的な行為を指す意味はある。
日本の中世でも『おやまき』『母開(ぼかい)』という語があり、相手をののしる際に用いたようだ。
意味は母子相姦であろうと考えられるが、原始社会の時代からタブー視されており、
悪口として、これらの要素を含むものは相手を強くおとしめることになる」と解説した。
つまり、程よくディスった表現が「うつけ」。安土桃山時代にイエズス会が出版した「日葡辞書」にはポルトガル語で
「Vtcuqe」(ブツケ)とあり、当時の日本では広く使われていた語句のようだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2608c80a319cac192c2828dc837f036886b6ae09