なして君ら「ポストモダニズム」嫌うの?いま俺たちの直面してる問題こそリオタールの言う「大きな物語の終焉」そのものなのに [511393199]
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ディストピア小説『一九八四年』はなぜ再注目されているのか?―秦邦生『ジョージ・オーウェル『一九八四年』を読む』鴻巣 友季子による書評(ALL REVIEWS) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/dbe967ed4c5b5ab1fa0d880a240487682b33d479 ソクラテス以前のソフィストの詭弁、単なる逆張りって思っとるんけどどうやろか?🤔 そもそも大きな物語の終焉に対して
小さな物語の分析への転換が重要なんであって
大きな物語の終焉自体はそこまで重要な問題ではない
まだ大きな物語自体は存在しているし
大きな物語が終わったか終わってないかという論点に微妙にずれてしまうから 大量殺人者は標的をランダムに選ぶ場合がある
殺人行為によって無名性や性的不能を埋め合わせるのだ
20世紀 人間は我慢しないことを覚えた
不幸や災難を じっと堪え忍んだりはしない
誰もが正当な扱いと正義を求めている
それゆえ人生に厭んだ者も静かな退場はしない
死に方によって人生に意味を与えようとする
https://i.imgur.com/y9NA724.jpg
その欲求不満は復讐の形で現れる
大量殺人者は自分を無視した者を狙って復讐する
初めて自分が歴史を創るのだ
死んだ生から 生きている死へ
少なくとも数日間は世間の注目を集めるのだから
このバカげた希望は 非存在の全人生よりはるかに濃密だ
無動機殺人者はポストモダニズムの殉教者である 近代、モデルネの大きな物語の問題は
ハーバーマスの後期資本主義論、
ギデンズの再帰的近代化論にせよ
まだ大きく横たわっている 一方で小さな物語もまた近代が終わる終わらない以前に
太古から存在しており我々はその物語の確実な分析のツールを持たない
というところから、意味の復権や小さな物語論を捉えるべきであって
あまりモダン、ポストモダンの差異はそれほど重要ではないかと もちろん大きな物語が支配的な物語として現れる時それに対抗しうる物語としての
小さな物語の重要さは言うまでもない なんも大袈裟な話でなかて、単にテレビが普及して人が多くのことを知ってしまった、そんだけのことでない🤔
ブータンにネットが開通したら瞬く間に幸福度が下がったみたいなもんなんよ
ポストモダン学者とかなんか知らんけどテレビの視聴率でも調査しといたらええんでない? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています