中村修二は青色発光ダイオードの発明者ではない

日亜化学工業社長の小川英治氏
訴訟騒動の真実を今こそ明らかにする

(日亜化学工業の研究員が)アニールp型化現象を世界で初めて発見しました。
これを発見したのは,中村(中村修二)氏ではありません。中村氏とともに働いていた若手の研究員が,幸運にも偶然発見したものでした。
当社(日亜化学工業)から言わせれば,中村氏は実用化に向かう研究のための下地を作っただけ。
既に世の中に存在していた,赤崎(赤ア勇)氏が生み出したものと同じ水準の試料を,違う方法で作ることができただけなのです。
この貢献に対し,当社は中村氏にボーナスや昇給という形で報いてきたつもりです。
1989年から11年間の合計で,同世代の一般社員よりも6195万円ほど上乗せして支給しました。
45歳で中村氏が退職する際の給与所得は2000万円弱。決して少ない額ではないと思うのです。
中村氏は404特許の発明で得た報奨は,特許出願時と成立時の合計で2万円しかないなどと言っているようですが,そんなことは決してありません。

中村氏は1994年以降,自分で実験はしていません。周囲の共同研究者の研究成果を筆頭者(ファーストオーサー)として対外的に発表してきました。
こうした地方の会社から,日本だけでなく海外の学会でも発表してきたのです。だからみんなから「スーパーマン」のように思われてきました。
論文の書き方も学会発表の意味も,当社の社員はよく知らなかったのです。「自分の名前が出ているからいいか」という程度でみんな仕事をしていました。
ここが一番の問題だったのです。地方の会社で中村氏を自由にさせておいたから。
中村氏が筆頭者として発表したあれだけの量の論文は,とても中村氏が自分で行った実験だけでは作成できません。

東京地裁で裁判官の方は「貧弱な研究環境で個人的能力と独創的な発想により世界的な発明を成し遂げた希有(けう)な事例」であると判決時に述べました。
しかし,これも納得がいきかねます。1986年に当社は10億円を使って,研究棟を新設しました。床面積1万m2,6階建てです。
1989〜1993年までにガス系統などを含めて4億円はするMOCVD装置を5台も購入しています。地方の企業でこれだけの研究設備をそろえていたのです。
一体,これのどこが「貧弱な研究環境」なのでしょうか。
「貧弱な研究環境」という表現は,中村氏自身が書いた本や記事,インタビューを受けた雑誌などに見られるものです。要は,自分でそう表現しているだけなのです。

当社を訴えたことに関して,中村氏は「日亜化学工業が訴えたから反訴した」と語っていますが,これには「裏」があります。
2000年9月22日,日亜化学工業は米Cree社から訴えられました。その4カ月以上前の2000年5月1日,中村氏はCree社と雇用契約を結びました。
そして,それとは別に中村氏は日亜化学工業を訴えるという契約をCree社との間で結んでいるのです。
もちろん,中村氏はCree社からインセンティブ(ストックオプション)を受け取ってのことですが。訴訟費用もすべてCree社が負担するという契約でした。
それを知った当社は,2000年12月21日,Cree社を反訴するとともに中村氏を訴えたのです。

中村氏は,当社で青色LEDの開発を提案した本人ということから,世間に対して当社の青色LED関連の発表をする窓口を務めていました。
加えて,先述のようにファーストオーサーとして論文を発表してきました。
学会に訪れた研究者たちは,その内容が実は日亜化学工業の多くの技術者たちが成し遂げたものではなく,中村氏が1人で実現したものだと思ってきたのです。
そうした外部への発言が,彼を「スター」に祭り上げ,いつの間にか世の中は,中村氏が発言したことを鵜呑みにするようになってしまったのです。
https://web.archive.org/web/20150327083353/http://techon.nikkeibp.co.jp/NEWS/nakamura/mono200404_2.html