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最初のうちは日本の戦略爆撃と称して、軍需工場、施設、さらには軍事機関などに攻撃を限定していたのだが、
実際に日本上空にやってきたB29のパイロットたちは、上空からの写真ではそうした施設と一般の住宅との区別がつかず、
市街地に爆弾を落とすこともあった。
だが当初は軍事上の爆撃に徹していて、一般国民を含む無差別爆撃を極力排していた。
しかし昭和20(1945)年1月に第21爆撃軍司令官にカーチス・E・ルメイ少将が就任すると少しずつ日本本土爆撃の様相も変わっていった。
軍事爆撃の一方で、無差別爆撃を含む戦略上の爆撃にも積極的な姿勢を示すようになっていったのである。
ルメイは日本の都市が、木と紙でできていることなどを検討していたし、最終的に東京を焼け野原にして日本人の戦意を
ゼロにしてしまわなければならないとの考えを持つに至るのである。
実はアメリカの世論は、B29のパイロットたちが軍事施設を狙いながらも市街地に爆弾を落とすことにさほどの罪悪感は持っていなかったという。
有力誌である「ライフ」は、パイロットたちの次のような証言を紹介している。
「アメリカ人は、ドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、ジャップに対しては憎しみは自然と湧いてくる。(略)復讐は快いものだ」
(「米軍が記録した日本空襲」平塚柾緒編著)
真珠湾攻撃、バターン死の行進などへの復讐は楽しみだ、とも言っている。
パイロットたちは一様に無差別攻撃に傾く心理状態になっていたのである。
日本の敗戦に至るまで続く本土への空襲は、こうしたパイロットたちの感情が下敷きになっていたことも知っておかなければならない。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/301412/2