司馬懿、30年越しの反旗 その源に曹操の夢一つ

 中国の後漢末期では、朝廷は全国を統制する力がありませんでした。そのため、各地の諸侯は混戦を引き起こしていました。
劉備、曹操、孫権など、さまざまな勢力は領土と権利の争奪をめぐり、互いに討伐していました。
紀元220年、曹操の長男・曹丕は洛陽において帝と称し、国号を「魏」としました。
紀元221年、劉備は成都において帝と称し、国号を「蜀」としました。紀元229年、孫権は帝と称し、国号を「呉」としていました。
三つの国が互いに対立する情勢でした。
しかし、曹丕が世を去った後、魏国が曹家ではなく、司馬家一族によって支配されるとは、誰も想像すらできませんでした。

 司馬懿も、三国の時期の傑出した人物であり、知恵と計略、そして人材の選択に優れていました。
しかし、そんな司馬懿は、なぜそこまで曹操を怖れ、曹操の死後30年も経ってからやっと反乱を起こしたのでしょうか?

 この話は、かつて曹操が見た夢から始まります。

 官渡の戦いの前夜、曹操は夢を見ました。
夢の中に、三頭の馬が馬槽(ばそう、飼葉桶)の中の飼葉を食べており、まもなく、飼葉が食べつくされました。

 夢から醒めた後、曹操は驚いて冷や汗をかきました。この夢は自分にとって尋常なことではないと認識しました。
「槽」とは「曹」一族のことを暗示しているのではないか?三頭の馬が槽の中の飼葉を食べるという事は、
三人の馬姓の人が曹家に替わって統治しようとすることを意味しているのではないだろうか?
それでは、どのような馬姓を持った人達が曹家を脅かすのであろうか?と、曹操は考えずにいられませんでした。
しかし、この時、司馬懿一家は影響力を持てなかったので、曹操はあれこれと考え、
西凉(現在の敦煌)の馬騰、馬超、馬岱の三人が、夢の中の三頭の馬にあたるとしか考えられませんでした。

 それもそのはず、当時、実力が最強だった袁紹に次ぐ西凉の馬騰も、過小評価してはいけなかったのです。
甘粛一帯にある西凉の地の人はみな遊牧民で、背も高く、身体が大きく、たくましくて勇猛でした。
あの董卓も、西凉軍に頼っていたことで全国を跋扈することができ、多勢のはずの「反董卓連合軍(註)」は討伐に行っても失敗して崩壊したのです。
「反董卓連合軍」の一員だった曹操も、当然のことながら、西涼の兵士の凄さを知っていました。

 そんな西涼の大軍をみな手中にした馬騰を除いても、配下にいる馬超と馬岱もみな一流の戦将でした。
もしこの二人が謀反を起こせば、それは非常に厄介なことになり、さらには、あの夢が現実になるかもしれません。
骨身を惜しまずに築いた曹家の礎を、三人の「馬」が力を合わせて壊そうとしたら…。曹操はさぞ怖くてたまらなかったのでしょう。

 しかし、当時、北には袁紹、南には東呉ありという状況で、いきなり西涼に攻め込んでいたら、自分を危険にさらすことに等しいのです。
そのため、曹操は臣下の意見を聞き、先に袁紹を打ち負かしたのち、東呉に攻め入り、最後に西涼に攻め入るという計画を立てていました。
しかし、意外にも、この後の赤壁の戦の大敗で、曹操は北方を固守せざるを得なくなりました。

 赤壁の戦以後、政権構造に大きな変化が起こりました。
益州(現在の四川省あたり)は劉備によって占領され、東呉は赤壁の戦での勝利によって戦う気力に満ち溢れていました。
もし、この時の涼州が引き続き強大な発展を続けていたならば、曹操は三面の敵に囲まれることになります。
不利な状況を打破すべく、曹操は西凉軍に攻め入ることを決めました。
早々に計画がうまく運び、馬騰はおびき寄せられて殺され、馬超と馬岱は劉備に投降させられました。
こうして、三人の「馬」という脅威がなくなり、曹操は不安からついに解放されました。

 しかし、それと同時に、本物の三人の「馬」は次第に浮上してきました。真っ先に立ち上がったのは司馬懿でした。

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