【三国志】 魏はどうしておけば、司馬一族のクーデターからの王朝簒奪を防げたの? [621794405]
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司馬懿、30年越しの反旗 その源に曹操の夢一つ
中国の後漢末期では、朝廷は全国を統制する力がありませんでした。そのため、各地の諸侯は混戦を引き起こしていました。
劉備、曹操、孫権など、さまざまな勢力は領土と権利の争奪をめぐり、互いに討伐していました。
紀元220年、曹操の長男・曹丕は洛陽において帝と称し、国号を「魏」としました。
紀元221年、劉備は成都において帝と称し、国号を「蜀」としました。紀元229年、孫権は帝と称し、国号を「呉」としていました。
三つの国が互いに対立する情勢でした。
しかし、曹丕が世を去った後、魏国が曹家ではなく、司馬家一族によって支配されるとは、誰も想像すらできませんでした。
司馬懿も、三国の時期の傑出した人物であり、知恵と計略、そして人材の選択に優れていました。
しかし、そんな司馬懿は、なぜそこまで曹操を怖れ、曹操の死後30年も経ってからやっと反乱を起こしたのでしょうか?
この話は、かつて曹操が見た夢から始まります。
官渡の戦いの前夜、曹操は夢を見ました。
夢の中に、三頭の馬が馬槽(ばそう、飼葉桶)の中の飼葉を食べており、まもなく、飼葉が食べつくされました。
夢から醒めた後、曹操は驚いて冷や汗をかきました。この夢は自分にとって尋常なことではないと認識しました。
「槽」とは「曹」一族のことを暗示しているのではないか?三頭の馬が槽の中の飼葉を食べるという事は、
三人の馬姓の人が曹家に替わって統治しようとすることを意味しているのではないだろうか?
それでは、どのような馬姓を持った人達が曹家を脅かすのであろうか?と、曹操は考えずにいられませんでした。
しかし、この時、司馬懿一家は影響力を持てなかったので、曹操はあれこれと考え、
西凉(現在の敦煌)の馬騰、馬超、馬岱の三人が、夢の中の三頭の馬にあたるとしか考えられませんでした。
それもそのはず、当時、実力が最強だった袁紹に次ぐ西凉の馬騰も、過小評価してはいけなかったのです。
甘粛一帯にある西凉の地の人はみな遊牧民で、背も高く、身体が大きく、たくましくて勇猛でした。
あの董卓も、西凉軍に頼っていたことで全国を跋扈することができ、多勢のはずの「反董卓連合軍(註)」は討伐に行っても失敗して崩壊したのです。
「反董卓連合軍」の一員だった曹操も、当然のことながら、西涼の兵士の凄さを知っていました。
そんな西涼の大軍をみな手中にした馬騰を除いても、配下にいる馬超と馬岱もみな一流の戦将でした。
もしこの二人が謀反を起こせば、それは非常に厄介なことになり、さらには、あの夢が現実になるかもしれません。
骨身を惜しまずに築いた曹家の礎を、三人の「馬」が力を合わせて壊そうとしたら…。曹操はさぞ怖くてたまらなかったのでしょう。
しかし、当時、北には袁紹、南には東呉ありという状況で、いきなり西涼に攻め込んでいたら、自分を危険にさらすことに等しいのです。
そのため、曹操は臣下の意見を聞き、先に袁紹を打ち負かしたのち、東呉に攻め入り、最後に西涼に攻め入るという計画を立てていました。
しかし、意外にも、この後の赤壁の戦の大敗で、曹操は北方を固守せざるを得なくなりました。
赤壁の戦以後、政権構造に大きな変化が起こりました。
益州(現在の四川省あたり)は劉備によって占領され、東呉は赤壁の戦での勝利によって戦う気力に満ち溢れていました。
もし、この時の涼州が引き続き強大な発展を続けていたならば、曹操は三面の敵に囲まれることになります。
不利な状況を打破すべく、曹操は西凉軍に攻め入ることを決めました。
早々に計画がうまく運び、馬騰はおびき寄せられて殺され、馬超と馬岱は劉備に投降させられました。
こうして、三人の「馬」という脅威がなくなり、曹操は不安からついに解放されました。
しかし、それと同時に、本物の三人の「馬」は次第に浮上してきました。真っ先に立ち上がったのは司馬懿でした。
https://www.visiontimesjp.com/?p=30352 北伐対策で司馬懿が活躍しなければ司馬懿がそんなに影響力持つこともなかった訳で、魏滅亡の遠因は孔明 司馬師や司馬昭まも優秀だったからな
有能が3代続くのは強い 曹丕曹叡が長生きしてるだけでもなと思うけど
まあどうすればって話だとその辺は違うな 曹操のときにはや司馬懿は有能過ぎると見抜いていたが、排除までには至らなかった こいつのひ孫世代、どうしてあそこまで狂ってしまったんだ?
何回読んでも、憶えられないカオス >>68
昔のコロナみたいなもんが流行っていたのかもな 漢・司馬孚、兄や甥の簒奪ムーブに悲憤
>>86
インガオホー的に解釈すれば
司馬懿や司馬師・司馬昭の所業がそれだけ穢れていたということかと〜 >>85
鶏肋野郎は速攻排斥してたのにな。なんでそこはやらんかったのやろ? 楊修は父楊彪が官渡の戦いの際袁紹に寝返り許昌でクーデター起こすのも防いでた気配があるんだよな
袁紹とも仲が悪かったみたいだがそれでも曹操には何度も歯向かう気配を見せてる華北平定が始まる頃に引退したのもそれだろうし
楊脩は鶏肋だけじゃない若年から冴えを見せてる曹操も助かってるだから余計に怖かったんだろう ところで軍師連盟ってどう?
なんか三国志好き向けってより中国の若い俳優好きに受けてる感じするけど >>89
楊脩は後継問題で曹植に肩入れしすぎたから >>82
司馬懿が魏のトップクラスに上り詰めたのは明帝臨終の際に
本来重臣になる予定だった曹宇が失脚したため。
明帝の側近グループ内のごたごたが司馬懿に棚ぼたになった。 軍師連盟全部見たけど数ある中国の歴史ドラマの中では2流だな
司馬懿がどういう風に司馬家を守って権力を蓄えていったかうっすらとは分かるが
やっぱり始皇帝やら劉邦やら朱元璋やらの英雄を描いたドラマに比べると内容が薄い
やっぱ司馬懿の生きざまそのものに英雄としてのスペクタクルが乏しいんで仕方ないか
ただ軍権を手中にしてから簒奪に至る経緯はけっこう丁寧に描かれてる気がした 長生きが曹家の安泰
転生した奴が健康法を教えてればよかった つーかさ日本人ならどうやれば豊臣政権が維持できたか真剣に考えようよ?ねっ!! >>102
豊臣政権自体無理矢理出来たようなもんだからなぁ
あれじゃ後継者が陣頭に立ってバリバリ粛正とか出来るぐらいのパワー無いと無理 >>102
秀次を殺さない
朝鮮出兵は一回にして釜山の領土だけもらって、そこに秀秋を統治者で執政に家康を送り込む >>104
家康はそこそこ有能だったから取って代われたけど別に無能しかいなくても
豊臣政権が崩壊してまた日本が荒れるって言う常態になるだけだと思う >>22
日本もそうじゃない?鎌倉幕府も室町幕府も将軍が殺されてるし江戸幕府は大名の力を削ぐのに神経使ってた >>106
ロシア10月革命は、すでに社会民主党が政権に就いていたのに党内反主流派の自称ボリシェヴィキのレーニンらが強引に政権転覆をした結果だった。言っておくがレーニン帰国前はボリシェヴィキの指導的な三人(ジノビエフ、カーメネフ、スターリン)すべてが社会民主党や社会革命党による2月政府を支持していた
1989年の東欧各国が政変によって変化しつつある中、(ブルジョワ的)民主化を主導してきたソ連共産党のゴルバチョフ書記長は臨時の拡大中央委員会では「10月革命がなければ帝国派の軍部によるクーデターが起きて2月の政府は転覆されていただろう。だから必要だった」と擁護していたがね。立場上そう総括しただけだよ
「豊氏政権がつづいていたら戦乱の世に戻る」
などというのは、このゴルビーが苦し紛れに設定した架空のクーデターと同様な言いがかりに過ぎない
…と俺は思ってるよ >>108
続いていたらっていうか
武断派と文治派が完全に分裂してたから有能な家康が取って代われたけど
家康みたいなのがいなくてもその派閥の軋轢はなくならないって言う話 >>109
その「分断」そのものが
そもそも家康の扇動 >>110
いや朝鮮出兵の失敗が原因やろ
あの出征でダメ出しされた方を家康が取り込んだ >>111
かの前田利家がおのが病身を押してまで、それも大坂市内や洛中ですらかまわず糞康を倒滅しようとした理由は、
利家には明々白々だったからだよ
糞康の所業がね >>113
だから家康は有能だったから取って代わる気満々でだったからな
だから徳川政権が出来たわけで
それと豊臣が存続したかはまだ別問題やろ >>115
曹操って特にカリスマ感あるエピないし曹操の魏が盤石って言う統治有能感もないぞ
河北は袁紹が統治してたときより荒れてたって言う話もあるぐらい >>114
あれが有能?
むしろ秀頼の信望と才能を怖れて
あの方広寺事件をでっちあげるまでに焦ってただろ
最後の攻撃時にはフェイクニュースで市民を欺いてるし >>117
取って代われたんだから有能だよ、手段なんて関係ない 曹丕曹叡の代で司馬懿への依存度が大きくなってたのが駄目だろ
重臣にあんま権限集中させたら駄目だと思う >>118
違う。陶片追放時代の寡頭政治家に近い
明確な悪意を抱いて行動する糞康に対して
公儀の節度を信じていた者たちはそんな意図を抱かなかっただけだ
スターリンとその同僚たちの関係と同じ >>120
自分たちが織田を取って代わった政権なのに取って代わられることを全く警戒してなかったとかありえん
近代と時代が違うわ >>121
太閤が薨じたとき、三法師さまは大名としてご健在だよ
たしかに秀吉は悪逆非道だが、上様(信長公)のご嫡孫を害したりはしなかった >>101
蜀が滅びる前から魏は皇帝が臣下に殺されて
ほぼ司馬氏による乗っ取り完了前みたいな状況だったんだぞ 三法師こと織田秀信は一貫して秀吉秀頼側に付いてたぞ
秀次の側近だった時期もあるが太閤と関白間の争いが始まると秀吉に付いてる
石田三成が調停に奔走した時期も秀信は早々に秀次を見捨てるぐらいに秀吉の事慕ってたそれは関ケ原で西軍に加担するぐらいに >>53
日本語で音が同じなだけであっちでは違うだろ 曹操はそもそも人材マニアでもカリスマ性がある訳でもない
魏の強さは濁流派である曹操(曹一族)と清流派の中心人物である荀ケが手を結び
荀ケによる推挙で人材が集まってきた事にあるのに
自らが皇帝に成り代わろうと老害俗物丸出しの姿勢で荀ケと衝突して排除した時点で魏の命運は尽きていた
荀ケ排除後の後年は特に文官に対して軽視するような振る舞いがあったし
大国になってしまったからこそ文官はより重要性が高まるのにそこを軽視したら
今の日本のように不正、忖度と土台から腐って崩れ落ちるのは当たり前 曹丕も曹叡もやたら早死にしてるけど
これ暗殺とかされてない? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています