私が時代考証をつとめたNHK「土方のスマホ」に、新選組副長土方歳三が京都で馴染みになった君菊という女性が登場した。
この君菊は京都の花街に実在した舞妓だが、「土方のスマホ」のなかでこんなシーンが描かれた。
君菊「歳くん、ウチできてしもたみたい」
土方「ええっ」
コミカルな作風の番組だけに、ここもおもしろく脚色した部分なのかと思った視聴者も多かったようだが、そうではない。これは実話なのである。

新選組一の美男・土方が愛した君菊とは、いったいどのような女性だったのだろうか。
土方には文久3年(1863)11月に故郷にあてた手紙が残されており、そこにはこのように記されている。
「京にては嶋原花君太夫、天神一之、祇園にてはいわゆる芸子三人ほどこれあり、北野にては君菊、小楽と申しそうろう舞子、大坂新町にては若鶴太夫、
ほか二、三人もこれあり、北の新地にてはたくさんにて筆にては尽くしがたくーー」

これら花街の女性たちが土方に惚れており、もて過ぎて困っているという手紙だ。新選組の鬼副長といわれた男にしては随分とくだけた内容の手紙だが、
宛先の小島鹿之助は故郷多摩の親しい知人であったから、気を許した文面になったのだろう。

女性たちのうち、名前をあげられているのは5人で、そのなかに君菊がいる。北野天満宮の門前に栄えた花街、上七軒の舞妓(舞子)であったとなっている。

注目されるのは、君菊が「芸妓」ではなく「舞妓」だったということだ。舞妓というのは、唄や踊りなどの芸で客をもてなす十代の少女で、
芸妓になる前の見習いの立場にあった。現代でいえば未成年ということになるそんな少女たちとも、土方はよろしくやっていたのだった。

そして、土方のお気に入りとなった君菊は、いつしか深い関係となり、やがて子を身ごもったというのである。

土方歳三は、35歳で戦死するまでの生涯を独身で過ごし、女性との間に子をなしたという記録は、このほかには伝わっていない。
したがって君菊との間に生まれた子は、土方にとって唯一の血をひく貴重な存在ということになる。
となれば、新選組ファンならずとも、その子の行く末は気になるところだが、前出の小島家に大変残念な記録が残っていた。
「土方歳三は京都に馴染みの女があり、一人の女子を産んだが、その子は幼くして亡くなった。女はのち他人に嫁いだが、所在は不明である」(「慎斎私言」)
君菊が産んだ子は女の子だったが、早くに亡くなってしまったというのである。現代と違って乳幼児の死亡率が高かった時代とはいえ、惜しまれることだった。
母親の君菊のほうは、土方が京都を去る際に別離となったものか、他の男に嫁いだのだという。これも武士と花街の女、しかも幕末の動乱期という状況においては、仕方のないことであっただろう。
ただ、不明とされていた君菊の、その後の所在を追跡した者があった。土方の義兄・佐藤彦五郎の子の俊宣で、明治22年(1889)6月、旅の途中に京都に立ち寄り、君菊の消息を調査した。

日記には次のように記されている。
「土方歳三の愛妾を探る。北野天神東門外上七軒町の歌妓、君鶴といいし者、その後、人に嫁しすでに四年前死去せりと聞知す」(「籬蔭史話」)
君鶴というのは誤記だろうが、なんと君菊は4年前、すなわち明治18年(1885)に死亡していたというのである。
正確な年齢はわかっていないものの、土方と出会った頃に15歳くらいであったとすれば、没年齢は37歳ほどか。まだ寿命には遠く、何らかの病気で亡くなったのだろう。
もし佐藤俊宣が間に合っていれば、存命だった君菊の口から、土方との思い出が語られたかと思うと惜しまれてならない。

幕末という熱い時代に土方歳三と出会い、愛し合って子もなした。そんな日々を、他人に嫁いだ維新後にも思い出すことはあっただろう。
君菊にとって、土方と過ごした日々は幸せな思い出となっていただろうか。そうであったことを願うばかりである。

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamamuratatsuya/20220221-00283035