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そのA級戦犯を英霊として祀る靖國神社こと長州カルト神社を作った明治政府は死人の生前の罪を許さない考えを持っていたからな

神田明神に圧力をかけて、本社祭神から平将門を外させている
http://www.komainu.org/tokyo/kunai/tiyodaku/kandamyoujin/kanda.html
> 明治維新後、明治天皇行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、代わりに少彦名命が大洗磯前神社から勧請された。
>平将門神霊は境内摂社に遷されたが、昭和59年になって本社祭神に復帰した。

明治政府は分祀ではなく、完全に平将門を消し去ることを望んでいた
https://sakamichi.tokyo/?p=15920
>江戸幕府から庇護を受けていた神田明神は新政府から標的にされてしまいます。
>明治五年(1872年)教部省は将門公祭神廃止論を掲げ、朝廷の逆臣・将門公を祭神から下ろせと神田明神に迫ります。

>当時の神田明神の祀官は本居豊穎氏で、あの国学の大家・本居宣長のひ孫に当たる人物。この問題は東京府知事・大久保一翁と本居氏との間で折衝することになり、本居氏の案は柴崎家に伝わる古文書「神社啓蒙」の一節「将門の社は本殿を去ること百歩」を引用して、将門公を摂社に移し、代わりに少彦名命(えびす様)を大己貴命(だいこく様)と合祀するというもの。

>これを聞いた教部省は雑誌「新聞雑誌」に、あくまで消し去れと「府下神田神社、平将門ノ霊位除却ノ事ニ付、教部官員等議案」なる反対意見を掲載しますが、五日後、大久保府知事はあっさり本居氏の願出を許可。祀官は本居宣長のひ孫、府知事は旧幕臣ということが神田明神に幸いします。

>そして、明治七年(1874年)八月十六日、少彦名命の分霊が大洗磯崎神社から遷座され大己貴命と同殿に迎えられます。