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和人は、詩織さんに「俺のために自分の体を、今、お前は切れるか」と聞いているが、実際には、詩織さんのために和人は自分の体を傷つけているのだから、彼の願望は、現実を鏡像的に反転したものになっている。彼は、プライドを取り戻すために、いわば報復的に、反転された行動を要求しているわけである。

和人の異常な人格に気がついた詩織さんは、和人に対する信用を失い、別れたいと思うようになった。しかし、和人は、詩織さんに別れることを許さなかった。以下のテープレコーダに記録された電話での発言(5月頃)をみれば、それが、自分のプライドを守るためだったということがわかるだろう。

【お前、世の中なめすぎてんだよ、まったくよ。嫌いになって別れてそれで済むと思ったら大間違いなんだ。コケにされて騙されつづけてよ。そんな人間どこにいるよ、お前。あん、それでバイバイなんて言う人間じゃねえんだよ、俺は。自分の名誉のためだったら、自分の命も捨てる人間なんだよ。そういう人間なんだよ、それだけお前を愛してたんだよ。それに対してなんだ、テメー、なんだよ、お前。信用なくしただ? ふざけんじゃねーよ、コノヤローテメー。】

「自分の名誉のためだったら、自分の命も捨てる人間なんだ」と「それだけお前を愛してたんだ」は、一見すると、結びつかないと思うかもしれないが、そもそも嗜好と区別された愛の本質は、「他者を媒介として自己の存在を確認するナルシシズム」[永井俊哉:縦横無尽の知的冒険. p. 211]にある。自分で自分を誉めてもトートロジー的な自己同一であり、なんらの名誉でもない。名誉は、他者から承認されることで始めて得られる。そして、愛されるということは、性的魅力に関する、他者による承認なのである。