香川の製麺機会社社長「うどんを空海の功績にしたい人々の心は分かるが、朝鮮半島から伝わったククスがうどんの起源だ🙁」 [639215321]
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うどんで有名な香川県では、僧侶の空海5が中国から製造法を持ってきたのがうどんの始まりという説が広がっているのが、
岡原雄二さぬき麵機会長が今年1月に憐れみにした本「不易流行」で朝鮮半島由来説を記した。
岡原会長は室町時代(1336〜1573年)から江戸時代(1603〜1867年)にかけて朝鮮半島から日本に伝わった麺料理がうどんの起源であるという見解を繰り広げた。
彼は空海が活躍した平安時代(794〜1185年)初期には、うどんを作る際に必要な塩と小脈が「国内(日本)にほとんど存在しなかった」としてこのように説明した。
当時庶民は米を中心に穀物を一粒そのまま食べる食習慣であり小麦を粉砕して料理する分食が導入されたと考えにくいということだ。
朝鮮王朝が室町時代以降、日本に派遣した外交使節団がカルククスを伝えたという説があり、岡原会長は「その時期に日本にも製粉が普及した。カルグクスがうどんの原型」と推測する語った。
彼は「うどんを空海の功績にしたい人々の心は分かるが、根拠が足りない」と指摘し、日本で本格的に塩を量産できるようになった江戸時代に初めてうどんが広がり始めたと結論を下す。
江戸時代に、香川県琴平町にある神社である金刀比羅宮の門の前で讃岐うどんを食べた参拝客がこれを全国に広める役割を果たした可能性があると主張した 。
1910年に創業したさぬき麵機は、日本での実績が最高の製麺機メーカーで、讃岐うどん、そば、日本ラーメンなどを製麺する際に必要な設備を供給する。
https://news.v.daum.net/v/20200423222511622
http://nobuchin.0011.co.jp/index.php?e=4859
@knzw_yokohama
カルビうどん🐮@朝鮮飯店高崎駅西口店
https://pbs.twimg.com/media/EQTZR92UwAAAwQ2.jpg
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肉体派“体操”芸人として知られ、現在は俳優としても活動しているオラキオさん。2年連続で参加した「さぬき映画祭」ではうどんの奥深い世界に触れ、
また香川を訪れる日を心待ちにしているといいます。当時の思い出と、香川の気になるグルメを語っていただきました。
https://www.my-kagawa.jp/blog/blog-20220301/blog-20220301 当たり前
いかなるのことどんなののすべてあらゆることの中韓ヘイト行為が許されない 博多「すまん、うどん発祥の地はウチだが?石碑も残したが?」 麺類とか餃子みたいなものの発祥なんて特定難しいんじゃね
全世界にあるし 何でも弘法大師起源にしとけばいいと思ってそうな土地柄だからな 大体の麺類は中国から朝鮮を経由して日本に伝わったんじゃないかな? ・今年1月に憐れみにした本
・うどんを作る際に必要な塩と小脈
・小麦を粉砕して料理する分食
・カルグクスがうどんの原型」と推測する語った
変な日本語だと思ったら自動翻訳か 海外から来たってだけじゃなあ
海外から日本人が持って帰ってきたからいいんだよ
なんでスレタイに絵文字使うの?
なんでスレタイに絵文字使うの?
>>1
なんでスレタイに顔文字使うの? 麺の起源は中国だし
朝鮮経由で伝来だろうから
何もおかしいことはない てことは大量生産できなかった戦国時代に敵に塩を送った上杉謙信は超太っ腹てこと? >>9これな
杖ついたら温泉湧き出したとか本気で信じてる奴らの集まりだからうどん脳なんていわれんのよ 凄いよね
色んなものが朝鮮半島から伝来したけど
当の朝鮮半島には全く根付かなかったという 日本で本格的に塩を量産できるようになった江戸時代
これマジ?ジャップって塩すら作れなかったのか?
ヤバすぎないか? 明洞の大衆食堂で食ってたカルグクスはメチャウマだった
ジャップのうどんじゃ正直相手ならんわ ほとんど存在しないからないとするならラーメン水戸黄門説も認められんな 空海5強そうだな
最澄6とどっちが強いか戦わせたい 朝鮮がまた起源主張してるのか
索麺、截麦は中国発祥何だからそれでいいだろ 説ありすぎだろ
発祥には諸説あり定かではないが、時代順に並べると以下のようになる。
@遣唐使の一行が索麺の製法を、遣唐使船の寄港地であった長崎県上五島の人々に真っ先に伝えた説。中国・浙江省岩坦地区に現存する「索麺」の製造方法が、五島うどんの製造方法に酷似しており、素麺発祥と謳っている三輪素麺に素麺を供給していた島原素麺などの製麺技術が古代から同地域に発達している事など地理的に考えても有力な説である。
A奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩(こんとん)」に起源を求める説。
B青木正児の『饂飩の歴史』によれば、ワンタンに相当する中国語は「餛飩(コントン)」と書き、またこれを「餫飩(ウントン、コントン)」とも書き、これが同じ読み方の「温飩(ウントン)」という表記になり、これが「饂飩(ウドン)」となったとする説。
C平安時代に遣唐使として唐に渡った空海が饂飩を四国に伝えて讃岐うどんが誕生したという伝説。
D平安時代の989年、一条天皇が春日大社へ詣でた際に「餺飥(現代ではほうとうと読むがはくたくと読む。神饌として奉納された)」を食べたという『小右記』の記述から、発祥は奈良とする説[4][5][6]。また、それ以前の奈良時代までは索餅・はくたくのいずれも醤で調味しながら野菜とともに煮て現代のほうとうと同様に食べられていた。
E仁治2年(1241年)に宋から帰国した円爾(聖一国師)が製粉の技術を持ち帰り、饂飩、蕎麦、饅頭などの粉物食文化を広めたとする説。承天寺(福岡市、円爾建立)境内には「饂飩蕎麦発祥之地」と記された石碑が建っている[7]。また製粉機の詳細を記した古文書『水磨の図』が残されている。
F中国から渡来した切り麦が日本で独自に進化したものであるという説。
G奥村彪生によれば、麵を加熱して付け汁で食するものは中国にはなく、日本の平安時代の文献にあるコントンは肉の餡を小麦の皮で包んだもので、うどんとは別物であり、うどんを表現する表記の文献初出は南北朝時代の「ウトム」であるとする説[8]。
H南北朝時代末期の『庭訓往来』や『節用集』などに「饂飩」「うとん」の語が現れる。江戸時代は「うどん」と「うんどん」の語が並存し、浮世絵に描かれた看板などに「うんとん」と書いてあることがよくあり、明治初期の辞書『言海』には「うどんはうんどんの略」と記されている。
10 室町時代に記された『尺素往来』に「索麺は熱蒸し、截麦は冷濯い」という記述があり、截麦(切麦)が前身と考える説もあるが、その太さがより細く、冷やして食されていたことから、冷麦の原型とされている。切麦を温かくして食べる「温麦」と冷やして食べる「冷麦」は総じてうどんと呼ばれた[9]。
いずれにせよ、江戸時代前期には現代の形のものが、全国的に普及して広く食べられるようになっていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています