>>42
wiki見ると経緯はもう少し複雑、以下抜粋

>1993年2月、カーターは所属していたウィークリー・メールから休暇をもらい、シルバと一緒にスーダン入りし[3]、のちにピューリッツァー賞を受賞する「ハゲワシと少女」を撮影。
>ニューヨーク・タイムズ紙がこの写真をセンセーショナルに取り上げ、世界中に配信され注目されたことで、カーターはウィークリー・メイルを辞めて念願のフリーランスとなり、ロイターの契約カメラマンになった[1]。
>1994年5月にはアメリカでのピューリッツァー賞の授賞式に出席し、ヨハネスブルクの両親に「早くトロフィーを見せたい」と喜びの手紙を書いた。
>ニューヨークではファンに囲まれ、雑誌社からはインタビューが殺到し、有名な写真エージェンシーであるシグマ(英語版)とも契約できた[2]。

受賞による賞賛と批判の両方が渦巻く中、バンバン・クラブの仲間であるオーステルブルークが取材中に殉職し、マリノビッチが重傷を負ったことで激しく落ち込み[3]、ドラッグの量が増えていった。
>さらに、取材の飛行機に乗り遅れる、帰りの機中にフィルムを忘れるといった失態が続き、クライアントを失望させた。
>授賞式からわずか2か月後の1994年7月28日、車の中でガス自殺を遂げる[3]。
>遺書には、鬱と金に悩んでいたこと、取材で見聞きした悲惨な光景に苦しんでいたことなどが書かれていた[1]。