ソ連が対日参戦

 広島に原爆が投下された2日後の1945(昭和20)年8月8日、中立条約(41年4月調印)を結んでいたソ連が、日本に宣戦を布告した。
日本は米英との和平交渉の仲介役をソ連に打診していたほどで、まったくの不意打ちに何の対応も取れなかった。
ソ連の参戦は、同年2月に開かれた米英ソ首脳によるヤルタ会談で秘密決定されており、その見返りに南樺太と千島列島をソ連に帰属させることになっていた。

 ソ連との国境地帯に配置された日本軍は、主力を南方戦線に引き抜かれ、戦力は著しく低下していた。
これに対し、ソ連軍は対日戦に約150万人の兵力を動員、大量の戦車や航空戦力で日本軍を圧倒し、またたくまに日本の勢力圏だった満州国と朝鮮半島北部を制圧した。
さらに、日本がポツダム宣言を受諾した後に千島列島に侵攻し、日本側の守備隊と激しい戦闘が繰り広げられた。

 同年の9月初めまで続いた日ソ戦では、ソ連側推定で戦死者はソ連軍が約8200人だったのに対し、日本軍は約8万人に及んだ。
停戦後に捕虜となった日本の軍人、軍属のうち57万人以上がシベリアや中央アジア、モンゴルなどの収容所に抑留され、強制労働を課された。厳しい飢えと寒さで、抑留者のうち死者は約5万5000人に達した。

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