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コンスタンティノス11世パレオロゴス

コンスタンティノープルの陥落

コンスタンティノス率いる東ローマ軍は2ヶ月にも渡って抵抗を続けたが、1453年5月29日未明、ついにオスマン軍が城壁を突破。
コンスタンティノスは大剣を抜き払い、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、

「神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落とともに、われ死なん。
逃れんとするものを助け給え。死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!」

との演説の後、親衛隊とともに市中に渦巻くオスマン軍の中に姿を消して最後の抵抗を試み、
消えゆく帝国と運命を共にしたとされている。
結局、彼は行方不明となって(死亡は正式に確認されたわけではない)コンスタンティノープルは遂に陥落した。
こうして、アウグストゥス以来のローマ皇帝の継承者は絶え、紀元前753年に起源を発するローマ帝国は滅亡した。

https://c8.alamy.com/comp/2G2N57N/gustave-dor-constantine-palaeologus-haranguing-defenders-constantinople-2G2N57N.jpg