安倍晋三「プーチンは織田信長みたいな人でしたね、戦国武将がそのまま現代に蘇ったような」 [839071744]
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停戦交渉が重ねられているロシアとウクライナ。西側諸国が手をこまねいている中、日本にできることはないのだろうかー。
そこで度々名前が挙がるのが、安倍晋三元総理大臣だ。
在任中はプーチン大統領と27回もの首脳会談を重ね、互いにファーストネームで呼び合う様子が報じられるなど、両者の間には信頼関係が構築されているといわれてきたからだ。
テレビ朝日政治部の前官邸キャップで、歴代最長となる3000日以上に及んだ安倍政権を取材してきた吉野真太郎デスクは
「アメリカ大統領でも今年は向こうが来る、来年はこちらが行く、というくらいのスパンが通常だ。
もちろん多国間の会合に合せて時間を見つけて会おうよということをやっていたこともあるが、やはり27回というのは飛び抜けて多い」とした上で、次のように見方を示す。
「ロシアによる侵攻が始まる前であればやりようはあったかもしれないが、ことここに至っては本人も慎重だし、ヨーロッパの紛争に対してできることはないだろう。
そもそも“ウラジーミル・晋三関係”というのは、日ロ関係について“何とか突破しよう“という関係であって、汎用性の高いものではない。
だからウクライナ問題について安倍さんが“やあ、ウラジーミル”と言ってみたとしても、ヨーロッパ諸国からすれば“どうしたの?”という感じになるのではないか。
また、お互いに一挙手一投足を瀬踏みしながらやっていたわけで、安倍さんも、実は緊張しながら“ウラジーミル”と言っていた。
ある時、安倍さんに“プーチンさんはどんな人なのか?”と聞いたら、“戦国武将みたいな人だ。織田信長が生きていたら、ああいう感じなんじゃないかな”と言っていた。
西側の論理が必ずしも通じるわけではない、力の信奉者みたいなところがあると。衝撃的だったが、確かに織田信長に人権を説いても分からないだろう」。
(以下ソース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/308bc816f7f8cd6bd3856cd5742216d4b1cf6803
「織田信長みたい」
小学生かよ 安倍は字は上手いしネタには事欠かないし人文系の才能はかなりあるぞ
安倍の無意味な27回48時間のウラジーミル君とのお話のために何億使ってきたの?
何の役にも立たないんだから安倍は超高級風俗プーチンに使ってきた税金返せよ ウラジーミル
「普王朝の安帝みたいな人でしたね、世襲愚帝がそのまま現代に蘇ったみたいな」
安帝(あんてい)は、東晋の第10代皇帝。孝武帝の長男。諱は徳宗、字は徳宗。重度の知的障害によりその治世においては国政を執り行う事ができず、臣下たちの権力闘争を許し、安帝自身も翻弄され続けた末に、最後はのちの南朝宋の武帝劉裕の手に掛かって暗殺された。 うかつにリンク貼ると書き込めなくされちゃうからリンクはらないけれど、
以下に、信長が秀吉の嫁さんに送った手紙の意訳を転載
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この間は挨拶に来てくれてありがとう。頂いたお土産は大変美しく見事なものでした。
以前会った時より、あなたもずっと美しくなっていましたね。
藤吉郎(秀吉のこと)が、そんなあなたに不足があると言っているようですが、とんでもないことです。
どこを訪ねても、あのハゲねずみ(秀吉のこと)にあなた以上の女性は見つからないでしょう。
これからは、正室らしく堂々として嫉妬などなさらないように。
ただし、女として言いたいことがある時は、言いたいことを全て言うのではなく上手に扱いなさい。
この手紙は羽柴(秀吉のこと)にも見せるように。
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こんな感じの手紙を部下の嫁さんに出しているわけで、
昭和のサラリーマン上司みたいなところあるのが織田信長 >>15
wakuwakuwebというところにあった意訳を転載 おまえは歴史史上最低最悪の最長政権アベノミクスで名を残したしな >>18
検索して調べた結果をザクッと言うと、有名な三國志の時代の最後の方に活躍する魏の司馬氏の一族が魏を乗っ取って建てた国が晋で、
その晋が滅ぼされて残党が再興したのが東晋で、安帝はその東晋の皇帝 世界史の窓というサイトから転載。
安帝って一回帝位をゆずってからもう一回、皇帝になってんだ
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【東晋の滅亡】
396年には孝武帝が変死(後宮の女性と痴話喧嘩の末に絞め殺された)し、安帝が立ったが、統治能力に乏しく、
403年12月には、北府軍に対抗していた西府軍の桓玄が東晋の安帝から禅譲されるという形をとって帝位につき、国号を楚とした。
しかしわずか三ヶ月後に404年2月に劉裕がクーデターを起こし、桓玄を首都から追放、安帝を再び帝位に就けて復活させた。
実権は劉裕に移ったことは明らかだったが、劉裕はなおも20年近く、東晋皇帝に仕える形をとった上で、
ようやく420年に東晋最後の皇帝恭帝から禅譲を受ける形で帝位(武帝)について宋を建国した。
【貴族文化の隆盛】
東晋は、皇帝にも暗愚なものが多く、政治的には混乱が続いたが、魏・西晋を経て形成された貴族社会が継承され、宮廷では高度な貴族文化が花咲いた。
詩人では陶淵明が『桃花源記』などで名高く、画家では顧ト之が『女史箴図』を描いたのはこのころのことであった。
書家の王羲之の傑作『蘭亭序』などが生まれた。
総じてこの時代は、続く南朝の時代も含めて六朝文化といわれ、その最盛期となった。
また、僧侶の法顕がグプタ朝時代のインドに行き、戒律を学んで帰り、仏教も盛んであった。 漢字がちげえよって突っ込みのつもりだったんだけどな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています