マニラ大虐殺(マニラだいぎゃくさつ)は、マニラの戦い (1945年)において発生した虐殺事件。
民間人の推定死亡者は約10万人。戦後、マニラ軍事裁判において山下奉文が、
極東国際軍事裁判において武藤章が責任を問われ有罪となった。
1945年2月10日、日米両軍による激しい砲火の下、当時35歳のロペスは500人以上の隣人や家族と共に戦火から逃れようと、
エルミタ地区のフィリピン在住のドイツ人クラブの建物の地下に避難していた。
午前10時頃、日本軍の部隊がクラブを包囲し、誰も地下スペースから出てはならないと命令する一方で、
施設内ではクラブの中心にあった絨毯、椅子、テーブルを、施設の入口ではスーツケース、缶詰の包み、
避難民が持参していた衣類を積み上げてガソリンを撒き、火を放った。女性や子供たちはパニックに陥り、
「トモダチ!友達です、私たちは友達です!」と叫んだ。ドイツ人クラブのマルティン・オハウス(Martin Ohaus)は、
ドイツが日本と同盟を組んでいることを材料に避難民のことを考慮してくれるよう日本軍の士官を説得しようとしたが、
士官はオハウスを突き飛ばして足蹴にした。赤子を抱えた母親たちは命乞いをしたが、海軍兵士らは銃剣で赤子を突き刺し、
地面に叩きつけた。そして女性たちの髪を掴み、強姦し始めた。
20人を超す海軍兵士たちが13歳に満たない外見の少女を輪姦した上、
少女の乳房を切り取り、そのうちの一人が自分の胸に切り取った乳房を押し当てて女の真似をし、
他の兵士たちはそれを囃し立てた[3]。海軍兵士たちは他複数名の女性も強姦した挙句、
髪にガソリンを撒いて焼いた[3]。また、同じ現場ではロペスの使用人の一人も当時2歳の息子を竹槍で突き殺され、
下手人に仕返ししようとして袋叩きにされた挙句連行されたロペス邸跡のガレージの柱に縛り付けられ、
性器を切断されて口内に突っ込まれた。ロペスは母カルメン(Carmen)と別れてクラブを脱出する決断をし、
弟のホセ(Jose)や隣人のホアキン・ナバロ(Joaquin Navarro)と共に逃げ出すが、
ロペス以外の2人は撃たれて倒れてしまった。ロペス自身も左足を撃たれるが死んだふりをして兵士をやり過ごした。
姉マリアはクラブからの脱出に失敗して焼死し、義姉フリアは日本軍兵士に輪姦され、乳房を切断、髪にガソリンを撒かれて焼かれ、知人の女性も殺害後に死姦された。
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