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堤清二、MUJIの原点と矛盾

2013年に他界したセゾングループ創業者、堤清二。11月25日に命日を迎えた。200社で売上高4兆円を誇ったグループはバブルの処理で解体された。光と影が交錯する86年の人生は決して成功物語ではない。だが、しぶとく生き残った各社には、堤の執念が刻まれている。異色の事業家は、どんな未来を見て、何を見誤ったのか。無印良品や百貨店、ホテルなど事業の軌跡と、関係者の証言から、その実像を浮かび上がらせる。
逆説のブランドMUJIの原点
1991年、ロンドン市内に進出したばかりの「MUJI」の店舗を視察した堤清二は表情を曇らせ、こう話した。
「ブランドを否定して生まれた無印良品が、結局ブランドになってしまっているな」
この店舗は良品計画の海外進出1号店。ファッション関係のショップが立ち並ぶカーナビーストリートに開いた店は現地の雑誌に紹介され、当初から流行に敏感な若い女性の人気を集めた。だが、文具や収納用品、衣料など、英国まで輸送する物流コストのため、日本よりもかなり高い価格で売られていたのだ。堤の目には無印良品の精神に反していると、映った。
無印良品ロンドン1号店の開業後、堤は視察に訪れた
ブランドのロゴが入っているというだけでバッグが数十万円、数百万円にもなるのが、欧州の高級ファッションだ。無印良品はそうしたブランド消費へのアンチテーゼとして始まったはずなのに結局は東洋から来た、別の新しいブランドと思われている。そうではなくて、「わけあって、安い」というキャッチフレーズの通り、企業努力でコストを抑えて、海外の消費者が普段の生活で使えるような値段にしなければいけない
生みの親である堤のこうしたこだわりが無印良品の個性を際立たせ、日本で有数のグローバル小売業となる土台をつくった。今年度上期末で無印良品の海外店舗数は約30カ国422店舗となり国内店舗数を抜いた。
ただ発売以来、洗練されたデザインと広告でイメージを高めてきた無印良品は、それ自体が必然的に「ブランド化」していくという矛盾を抱えている。
それだけではない。堤という人物そのものも矛盾に満ちた存在だ。
このときロンドンを訪れたのは店舗視察が主目的ではなかった。セゾングループは88年、約50カ国で約100のホテルを運営するインターコンチネンタルホテルを買収していた。投資額は2000億円以上。世界のホテル業界で最大級の買収といわれ、その後、セゾングループが苦しむ一因にもなった。堤の出張は、同ホテルに関するミーティングが理由だったのだ。
世界に冠たるブランド力をもつ高級ホテルチェーンのオーナーでありながら、「わけあって、安い」にこだわる理想主義者
ルーツはラーメンデパート
こんな逆説をはらんだ、無印良品と堤という人間の本質は何なのか。まずは、堤が経営者人生のスタートを切った「ラーメンデパート」に遡らなければならない。
西武グループの創始者で衆議院議長でもあった父、堤康次郎の秘書をしていた堤清二が、西武百貨店に入社したのは54年。27歳のときだった。当時を振り返りこう語っている。
「私が入社したとき、西武百貨店はラーメンデパートと呼ばれていた。駅前にあって、ラーメンを食べようかと思って歩いていると、いつの間にか百貨店に入ってしまう。しかし、ラーメンを食べるほか、買うものがないと」
西武鉄道グループの本業である鉄道・ホテル・不動産事業は、すべて異母弟の堤義明が継承した。清二が引き受けたのは、電車のターミナル、東京・池袋駅が地盤の百貨店だった。
背景には清二と父の確執がある。内縁も含めて母の違う兄弟が何人もいる複雑な家庭環境で育った清二。東大生時代に一時、共産党員になったのも、日本有数の大資本家である父への反発が根底にあった。
「父親の命令で入社した。赤字会社だから入れたのだ。でも何とかして都心にある一流百貨店になりたいという思いでやってきた」
望んだ入社ではなかったが、間もなく経営者として才覚を発揮し、赤字の百貨店を再建する。当時、日本の大手アパレルは老舗の高島屋や三越を優先し、西武とは、ろくに取引さえしてくれない状況だった。そこで堤は、海外高級ブランドの導入で対抗する。パリに住んでいた妹の邦子の協力も得て、エルメス、イヴサンローランなど有力ブランドの販売権を軒並み獲得して、いち早く日本に導入していった。
さらに老舗百貨店が手掛けない海外の現代美術や前衛演劇といった、斬新なコンテンツを、百貨店やパルコの店舗で紹介し、若い顧客を中心に、先進的なイメージを広げた。80年代前半、西武池袋本店の売上高が日本橋三越本店を抜いて日本一になり、ラーメンデパートは見事に成り上がったのだ。