安倍晋三「プーチンは信長」 [377482965]
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安倍元首相「プーチン大統領は力の信奉者 信長と同じ」(FNNプライムオンライン)
https://news.yahoo.co.jp/articles/d3b440540b6741382ec48ac8baa4d822f8a28627
安倍晋三元首相は21日夜、都内のシンポジウムで、ロシアのプーチン大統領を「力の信奉者」とした上で、「織田信長に人権が通用しないのと同じだ」と述べた。
安倍元首相は、ロシアのウクライナ侵攻について、「プーチン大統領が長い間独裁政権を確立し、情報の分析が的確に行われない中、間違った判断をした結果だ」と分析した。
さらに、ロシアが戦線を拡大している状況に、「多くの人は、東部2州だけを限定的に攻めるのではないかとみていたが、おそらく冷静な判断ができなくなってきていると思う」と述べた。
そして、安倍元首相は、「プーチン大統領は基本的に力の信奉者。戦国時代の武将みたいなものだ」と指摘。「織田信長に人権を守れと言っても、全然通用しないのと同じと思っていただいていい」と述べた。 でも安倍晋三て過去の人物に例えることができないよな
安倍晋三で確立してるもん
安倍ちゃん織田信長なんてよく知ってたな
少し驚いたが何した人か聞いても答えられなそう どっちかというと秀吉じゃね?
秀吉も晩期はイエスマンしか周りにいなくて入ってくる情報精度がガタ落ちで朝鮮出兵大失敗に終わった訳だしな むしろ項羽だろ
匹夫の勇と婦人の仁を併せ持つ御仁だよ
補給を立たれて劉邦ゼレンスキーに敗れ去る運命の >>29
まあ戦国時代にここまでガイジだと座敷牢だもんな
信長の軍隊は規律が厳しく略奪暴行は少なかったんだよな
安倍ちゃんは頭が悪過ぎるよ 織田信長ってつまりナチスやヒトラーみたいなやつだったん?
>>34
天下布武違反やろ 226のご時世だったら真っ先に暗○されてるのが安倍 秀吉が惣無事令違反だっつって北条に侵攻したのも状況似てるな >>32
近代常備軍だからね
鎌倉武士なんてどれだけ無垢の民を殺して奪ったかが評価されたし プーはプーだろなんで日本の偉人で表現すんだよ、どんだけ同じ未来なんだよ まあ誰にも例える必要がないわな
プーチン自身がこの先例えられる立場になる歴史的瞬間に立ち会っているわけだ 日本国に正一位を追贈された俺がなぜか安倍晋三に戦争犯罪人扱いされている件 失敗したり裏切った部下許したり優しさに溢れすぎてるだろ……
まあ一線越えるとぶっ殺されるけど >>51
あの時代の人にしては割と先進的な考え方したりしてるのに、なんでそこで信長だな おめーに信長語れんのかよ
戦時中に後方で私腹肥やしてた爺の孫がよ どちらかって言うと秀吉だろ
秀吉もプーチンもサイコパスだし この21世紀に戦国時代の倫理観はヤバい
牛丼シャブ浸けどころの話じゃない
まぁ全世界を力で黙らせるくらいの力差があれば誰も何も出来ないが >>5
一条兼定でどうだ
超良血のボンボンで暗愚、最後は長曾我部に領土奪われて終了
信長の野望じゃ最低の最低能力のl象徴だぞ 今のプーチンは晩年の秀吉とかぶるけどな
信長のイメージはないなぁ たぶん比叡山の焼き討ちのこと言いたいんだろうけど
焼かれた坊主の素行が悪すぎて半分山賊みたいなもんだからなあ
なんか違うよな 安倍も似たようなもんだろ
プーチンが信長なら
安倍は袁術とかだよ どうせホトトギスのアレのイメージだけで語っとんやろ https://cloudfront-ap-northeast-1.images.arcpublishing.com/sankei/4EM2MVBZXFMXHJGXQ3TJEFLF7Q.jpg
「信長の原理」って本買ったから言っただけだろ
ちなみに本の内容はデタラメの歴史小説
癇癪持ちで人を人とも思わぬ信長が、褒美と恐怖の両輪で家臣に過酷な要求を強い、結局は皆に裏切られていったという内容 じゃあそのプーチンに引っ付いてた安倍晋三みたいなアホは誰なんだよ? https://www.tokugawa-art-museum.jp/exhibits/planned/2016/0714/post-12/
織田信長書状 おね宛
信長が秀吉の正妻おねに宛てた書状で、自筆の可能性が高い書状です。
おねの来訪を喜び、おねの美貌が前回対面した時よりも勝っていると褒め、
秀吉がたびたび女房への不満をもらすとは言語道断である、
どこをたずねてもあなたほどの妻を迎えるのは、かの「はげねずみ(=秀吉のこと)」には難しかろう。
あなたもこれからは朗らかな気持ちで、妻らしく重々しく振る舞って嫉妬を起こさないように、
言いたいことも少々我慢するほうがよいと書かれています。
また、秀吉にもこの文面を見せるようにとあり、信長が秀吉を「はげねずみ」と呼んだのがこの書状によってわかります。
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信長には昭和のサラリーマンの上司みたいな逸話あり プーチンのところに側近の嫁さんがやってきて旦那の愚痴を言うようなことあるのかと >>1
織田信長の楽市楽座も兵農分離も戦前の通説が近年の歴史研究で否定されとるんやで
>ちょっと専門的な内容。「楽市楽座」は、信長が始めたわけでもなく、習ったような内容でもなく、自由経済の先駆けのように捉えるのは、後の世の偏った見方のようだ。敵国の近くなど戦略上重要な場所に人を集めるために、安心して商売ができるよう保護したのが「楽市」で、「楽座」の事例は少なく、内容も「座」を廃することではなく、座からの徴収金を減らして商人にとって楽になるという意味であった。教科書で習った「楽座」=「破座」は秀吉の時代の話であるようだ。歴史の教科書はどんどん変わっていくので、世代間の常識に隔絶が生じるなあ。
>刺激的な一冊。「楽市楽座=信長」というイメージを廃し、織豊系以外の大名の「楽市」も考察する。大名ごとに様々な目的で出され、恣意的に運用される「楽市」は「自由な商取引」という言葉だけでは説明がつかず、また商人側も「諸役免除」に拘り、それが「楽市」に伴うものかどうかは重視しない。さらに衝撃は「楽座」で、それが役銭の減免を願う座側の申し出であり、「座の特権廃止」とは全く異なるということ。常識が揺さぶられるエッジの立った内容で、大変勉強になりました。
楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)
https://bookmeter.com/books/13447652 ●「楽市楽座」の実態
そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。
信長に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)
そして織田信長の「楽座」とは座の廃止どころか座を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
朝倉氏の滅亡後、庇護下にあった座を信長が安堵した史料も残る。
実際の座の廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。
そもそも「楽市楽座」の通説は皇国史観で悪名高い日本史学界の黒歴史・平泉澄が捏造したもの。
そして「鎖国」や「士農工商」同様、史実と大きく乖離した内容が歴史教育の場で定着してしまった。
関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており
琵琶湖においては水運を支配する堅田衆の関税を織田に上納させ、当地の関税に伊達家の使者が不満を記した史料も残る。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権になり廃止が進んだ。
明治以降の皇国史観や井沢元彦の歴史ファンタジーで定着した「織田信長=既得権益と戦い中世を終わらせ新たな時代を築いた英傑・天才」という史観は近年の歴史研究の視点ではもはや時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」こと三好氏凋落後の畿内における既得権益との癒着や支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田氏の権力拡大に多いに寄与したとされる。 >>64
ウクライナ側から見ると食い詰めロシア兵が盗賊働きしてるのを狩ってるわけだから
比叡山=ロシアってことか >>62>>64
●井沢元彦らが流布する「織田信長は"政教分離"を推進した」論の矛盾
・そもそも信長自身が熱田衆、津島衆、根来寺といった宗教勢力の軍事力を利用し合戦に動員させている。
・信長による比叡山焼き討ちはそもそも信長が上洛以降、畿内の比叡山の荘園(山門料)を不当占拠した事が発端。
延暦寺は当初平和的解決を図りこれを朝廷に訴え、朝廷は山門領の返還を求める。しかし信長側はこれを無視し占領を続ける。この結果信長と延暦寺の関係は悪化し後に浅井・朝倉が比叡山に陣を構える遠因となった。
・「そもそも比叡山に女子供がいるのはおかしい」→治安の悪化した中世に有力寺社の境内は最も安全な地域で移民も多く、多くの町民を抱え商工業の集積も進んだ。こうした地域は「境内都市」と呼ばれ比叡山麓の坂本もその一つだったが、織田軍の奇襲的侵攻による殺戮の舞台として灰燼に帰した。
・石山合戦や伊勢長島の虐殺で知られる本願寺派(一向一揆)との戦いも、そもそも信長による大坂への侵略が発端。それまで本願寺は信長が要求する多額の軍事費(矢銭)も支払い平和を望んでいた。
・越前の平泉寺では織田に協力的な派閥をそそのかし、武装解除どころか武力抗争を勃発させる
・また信長は自分に恭順した勢力に対しては関所や座といった既得権益を認め、寺社等が関税を徴収してきた「京の七口」は織田氏の京支配後も存続していた。こうした関所が廃止されたのは豊臣政権の時代。 ●「兵農分離」の実態
90年代に大ヒットした井沢元彦のトンデモ歴史ファンタジー「逆説の日本史」によって
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が世間に広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料(「信長公記」中の記述)とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する北条氏の百姓動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓の主な仕事は普請等で直接戦闘に参加する事は少なかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています