1945年3月毎日新聞「天皇陛下 戦災地を御巡幸 民草に御仁愛の御眼」⬅いやむしろなんで天皇はここで戦争を諦めなかったんだよ? [195892615]
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このあと残ってるイベントなんて沖縄戦と原爆くらいじゃん
■1945年3月 首都焦土化後の昭和天皇
https://i.imgur.com/Rdqtce4.jpg
■「ロシアと大日本帝国は似ている」からこそ、日本人にしかできない仕事がある 【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう
https://news.yahoo.co.jp/articles/98ebab260ed6490b4a081158c9c9b9de555eaf26
さらに、なぜもっと早く戦争を終わらせることができなかったのかなど、終戦時のことも田島長官に繰り返し語ったと記されています。
昭和27年2月26日の拝謁では、昭和天皇が「実ハ私はもつと早く終戦といふ考を持つてゐたが条約の信義といふ事を私は非常ニ重んじてた為、単独媾和ハせぬと独乙(ドイツ)と一旦条約を結んだ以上之を破るはわるいと思つた為おそくなつた」と語ったほか、日独伊三国同盟を結んだ理由については、日本の軍閥がドイツが勝つことを信じ切っていたためだが、その予想が違ったと述べたと記されています。
昭和26年10月30日の拝謁では、ソ連のスターリンの対応に触れて、「私が戦争を仲裁して止めてくれ、条件ハ無条件降伏の心組で其頃ハゐたが…と頼んだのを拒絶し、あまつさへ一年間期限の残る中立条約を蹂躙して宣戦して来るのがスターリンだからネー/これはスターリンとしてハ私ハ失敗だと思ふ なぜなら此時こちらの頼み通り仲ニ立てば米軍勢力下ニ日本が在るよりはもつとソ連勢力下ニなつてたニ違ひないからだ。又私ハスターリンによる平和克復ハ失敗したが実ハ結果ハ失敗した為め日本は幸福だつたといへる」などと力説したと記されていました。
昭和天皇はポツダム宣言を受け入れる、いわゆる「聖断」を行い、昭和20年8月15日に戦争が終わりましたが、昭和27年3月14日の拝謁では「私ハ実ハ無条件降伏は矢張りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたような時ニ其時を見付けたいといふ念もあつた」と語ったと記されていて、いわゆる「一撃講和論」にあたる考えを持っていたことを明かしていたことがわかりました。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-repentance-01.html
勝とうとしてんだもんまだ
雲南攻めたら?とか言ってたんだっけこの人
東京大空襲でわかっとけよいい加減 一撃講和
ソ連仲介
という無謀な賭けをして核二発くらって無条件降伏
やってる感だけで国民を不幸にした元祖 >>2
昭和天皇独白録
「十二日、皇族の参集を求め私の意見を述べて大体賛成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか[と]質問したから、私は勿論だと答へた」
天皇制>>>国民の命 >>10
大戦犯をバンザイで出迎えるとかマジで日本人は狂った民族だよな
ヨーロッパは勿論だけど同じ東アジアの中国、韓国でも戦後にこういう状況に
遭ったら間違いなく集団で襲いかかって嬲り殺すだろうに >>11
まあでもイタリアではムッソリーニはそれなりに愛されていて
夫婦で吊るされたけどその後も毎年生誕日には地元で日本の縁日みたいなお祭りやってるし
子供はイタリアで有名なジャズピアニストになったりしてるし ウクライナの動画の件で実感したけど、ネトウヨはいつも現行の天皇制をよく思ってないくせに、
都合のいいときだけ戦前の天皇制を、現行の天皇制と同じレベルの立憲君主制だと主張して有耶無耶にするよな。
明治憲法下の天皇は結構政治に口出してんぞ。
少なくとも首相の大命降下は天皇の意向が効いた例も多い。 事実上の降伏を進言した近衛上奏文 本当に成功すれば講和が可能だったかは現在も不明のミョウヒン工作
近衛のそれはコミンテルンが裏で画策する陰謀論満載で書かれていたとか
昭和天皇を擁護するつもりは毛頭ないが、直近の和平工作の案がこれでは無理だったな >>13
西側と中共(中華民国でない)は天皇免責で日本の国際社会復帰を認めたんだから
ウクライナを支援する西側が無実だと言ってるものをヒトラーと並べたら堂々と抗議できるに決まっとるやん >>11
そうしないと殺されるので、全員心の底から歓迎していた訳ではありませんよ。 >>15
いや天皇はクズなんだから抗議するほうがおかしいよ ●昭和天皇が語る開戦の原因
以上緒論及び本文に於て戦争の原因とその防止の不可能なりし所以を縷々述べて来たが、
結論として概括的に私の感想を話そう。
先ず我が国の国民性に付いて思うことは付和雷同性が多いことで、これは大いに改善の要があると考える。
近頃のストライキの話を聞いてもそうであるが、共産党の者が、その反対者を目して反動主義者とか
非民主主義者とか叫ぶと、すぐこれに付和雷同する。戦前及び戦時中のことを回顧して見ても、
今の首相の吉田などのように自分の主張を固守した人もいるが、多くは平和論及至親英米論を肝に持っておっても、
これを口にすると軍部から不忠呼ばわりされたり非愛国者の扱いをされるものだから、
沈黙を守るか又は自分の主義を捨てて軍部の主戦論に付和雷同して戦争論をふり廻す。
かように国民性に落ち着きのないことが、戦争防止の困難であった一つの原因であった。
(聖談拝聴録原稿(木下のメモ)「結論」)
●昭和天皇が語る終戦の理由
「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、
その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和せねばならぬと思つた」
(『昭和天皇独白録』) >>1
そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます >>20
でなぜ頼んだかといえば自分の地位を失いたくなかったからだぞ
ソ連に提示した条件も本気で停戦する気があるとは思えないほど狂ったものだったしな 近衛文麿から降伏進言された翌月によくもまあ巡航だのできるなぁ
明仁の税金で被災者の励ましとかいうドクズ行為もヒロヒトリスペクトなんだろうな >>2
ソ連に日本を売ろうとしてたのか
安倍の前世だったのかよ、ヒロヒト >>23
平成天皇はよくやってたとは思うけど、そのせいで昭和天皇もああいう感じの当たり障りのない象徴天皇だったって思われちゃってるような感じあるよな >>23
昭和天皇は近衛を完全に見限ってたからな
お前今更何言ってんだって感じだったでしょ
そもそも無役の近衛が何言っても戦争指導会議の議決がなければ講和なんてできない 天皇の写真を新聞掲載すること自体がめったにない時代だったはずで、東京大空襲が如何に大きな出来事として当時から受け止められていたかがわかるね。 「子孫にツケを残すな」というフレーズをよく聞くが
一番やっちゃいけないツケは真珠湾奇襲だった
永遠に日本に汚名を着せる最悪の愚行でしかない >>26 天皇が重臣の意見を聞きたいというので、近衛も上奏したんだが。 >>26
しかし天皇が降伏を口にすればそれを無視できる日本人などいないよ
そして、降伏と言って非国民扱いされる事を恐れ口をつぐんでいた日本人も自由に降伏を口にできるようになる
何せ天皇陛下の大御心という後ろ盾を得られるわけだからね
もちろん、天皇が言えばすぐ降伏できると言うものでもないがしかし天皇はそれを言わなきゃならなかった
普通に考えて絶対国防圏崩壊の時には
遅くともドイツ降伏の時には
それをいつまでも言わず一撃講和論にこだわってた裕仁は暗愚というほかない 天皇って神扱いだったのに報道機関が写真撮るのはOKだったんだ >>9
日本の歴史上、最も多くの日本人を殺した大悪党
ヒロヒト >>10
これ皇国史観が抜けてない婆さん以外は怒ってないか? >>18
なんで国民が勝手に戦争したみたいに言ってんの >>35 使い方が適正であれば、写真は載せられるし、映像を撮ることも許される。
東京大空襲の時は、天皇が国民を心配していることを伝えるためにも、政府から積極的に掲載の指示があったものと推測される。 なお国民がヒロヒトの顔写真が乗った新聞を燃やしたら拘留された模様 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています